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九月になりました。祭礼まであと一ヶ月。
祭礼にむけて準備が始まった事でしょう。

さて、今回の彫刻ネタは、右側下高覧です。

この彫刻は昭和26年、池田信之の手により作製されました。
この彫刻の題材なのですが、実は色々な説がありはっきりしませんでした。

後醍醐天皇は、正中元年(1324年)に鎌倉幕府を倒す計画を企てます。しかしこの計画は失敗に終わります、この事件を正中の変といいます。この計画の失敗により正中の変の首謀者とみなされた中納言 日野資朝は幕府に捕らえられ佐渡へ流されます。日野資朝などを捕らえたことで幕府側は後醍醐天皇には罪を問いませんでした。しかし、この七年後 元弘元年(1331年)に後醍醐天皇は再び倒幕の計画を企てます。
しかし、この計画も事前に幕府に知られてしまいます。計画を知られた後醍醐天皇は笠置山へ篭ります。天皇の呼びかけに応じて楠正成も赤坂城にて挙兵。しかし 九月には笠置山も幕府軍により陥落。楠正成のいる赤坂城へ後醍醐天皇は向かう途中幕府軍に捕らえられ隠岐之島へ流されてしまいます。これにより倒幕計画は失敗します。これを元弘の変と呼びます。
この計画が失敗したことにより、先の正中の変で捕らえられ佐渡へ流されていた日野資朝は処刑をされます。
この彫刻は、処刑をされる為に河原へ連れ出された日野資朝が自分の最後を知り、遠くの都を偲ぶ姿ではないかとの説がありました。
しかし、この彫刻の人物の着ている着物が、菊菱の文様が描かれている事から、日野資朝ではなく皇室関係ではないのか?との疑問があり、そこから「隠岐之島に流された後醍醐天皇が遠くの都を偲ぶ姿では?」との説もありました。

又 この彫刻に書かれている人物。着物の下に鎧をつけているのです。
後醍醐天皇にしても日野資朝にしても着物の下に鎧を着けているはおかしいです。

また、後醍醐天皇も日野資朝も都を偲んで・・・という場面は、有名なエピソードとして残っていません。もちろん 天皇や中納言が島流しにされれば都を偲んで空を見上げる事もあったでしょうけれど・・・。

ですので、この彫刻の題材がなんのか?疑問でした。

しかし先日、何気なく前賢故実という本をインターネットでみていると・・・・・・。






あれ? あなた どこかでお会いした事ありませんか?
あれ?この月 どこかで見た事ありますよ?

そうそう 下高覧のあなたじゃないですか?

あなたのお名前は? 何々? 藤原師賢(ふじわらのもろかた)さん。
又の名を 花山院師賢。

その藤原師賢が月を見て歌を詠んでる訳ですが その歌は

「思ふことなくてぞ見ましほのぼのと有明の月の志賀の浦波」

思い悩むことがなくて見たかった。有明の月が志賀の浦に寄せる波にほのぼのと映じている、この美しい景色を。と詠んでいるようです。

この藤原師賢さんは、鎌倉時代後期のお公家さんで後醍醐天皇につかえていました。
元弘の変で倒幕の謀が幕府方に漏れます。幕府は後醍醐天皇を捕らえようとしますが、後醍醐天皇は笠置へと逃れます。笠置へ逃れる際、幕府を欺く為に、この藤原師賢を天皇に変装させて比叡山へと篭らせます。幕府は比叡山に天皇が篭ったと思いそちらに軍勢を向けている隙に、後醍醐天皇は笠置山へと逃れました。

そしてその時 詠んだ歌が上記の歌であり、その姿を描いたのが前賢故実の絵であります。

下高覧の彫刻の人物が菊の菱の着物を着ている事や、着物の下に鎧を着ているのも納得できますね。
しかし絵の場面は、山上から琵琶湖を見てとあります。彫刻は、水辺から月を見上げています。
山上から琵琶湖を見てという説もありますが、「増鏡」という本では、この歌を詠んだ所は、山を下りて笠置に向かう途中、志賀の浦を過ぎる時に詠んだと書かれています。

実はこの下高覧の彫刻の構図は、町内有志の手により考案されています。
この題材を、増鏡から取りそれを絵にしたのではないかと思われます。

さて、その後藤原師賢は幕府に捕らえられてしまいます。
そして下総の国へと流され千葉氏によって幽閉され三ヵ月後になくなりますが、その後楠正成や新田義貞、足利尊氏らの活躍により鎌倉幕府が倒れ建武の新政がはじまります。その後の建武中興の際にはすでに亡くなってはいますが藤原師賢は太政大臣を追贈され、文貞公の諡号が与えられたそうです。

又、明治10年(1877年)、下総住民により師賢を祀る神社の創建運動が起こり明治12年に神社創建の許可が下りて新たな神社が創建されます。
その神社こそが、下総の小御門神社です。

小御門神社は、藤原師賢が後醍醐天皇の身代わりとなったことから「身代わりの神」として、交通安全・航空安全に御利益ありとして信仰されています。




 
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