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東関戸区の若連に所属する某若週のBLOG. 
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「東は絶対に屋台を引かぬ、又屋台は貸す事も出来きぬ、又貸さぬとも申しません」

前日の紛争後、東関戸側が西関戸側に回答した言葉は上記のようなものでした。

この回答をうけて西関戸側は、ますます今後の対応に頭を悩ませます。
さて、東関戸側「絶対に曳かない」という強硬な態度、「曳かぬが貸せぬ、が貸さないともいえない」という難解な回答の裏側には何があったのでしょうか?

2つの町内で一つの山車を曳いていた2町内です。
大所帯ゆえの小さな争いは、後を絶たなかったのではないでしょうか?
元は関戸という一つの町内、関戸郷の山車を二つの町内で共有するが故に、この二つの町内には近親ゆえの強烈な対抗意識もあったのではないでしょうか?
事実、若衆同士の喧嘩等は当時としても珍しいことでは無かったと思われます。
しかし、今回に限っては祭礼中に東関戸側の人間は、若衆は勿論、当役まで引き揚げてしまったわけです。
翌日には、「東関戸は山車を絶対に曳かない」との回答。

東側の強硬な姿勢には、引き揚げ後東関戸内にて廻ったある回状が深く関係しているのでした。

紛争後、引き揚げた若衆の中には、大所帯でのこれ以上曳きまわしに限界を感じていた人間も勿論いたと思われます。
それらの人間には、今回の出来事は「分離」を決心させる絶好の機会だったのでしょう。
その夜、東関戸内にはある回状が廻ります。
その回状には、今回の事を東側は強く抗議すべしという声明とともに今回の事の顛末がかかれていました。
回状は、若衆当役間だけでなく東関戸側の旦那衆の目にも触れる事となります。
当時の町内での強力な決定力をもつ旦那衆は、その回状により事の顛末をしり、今回の事の重大性、そして東関戸、西関戸の原状を知ります。
それにより、旦那衆も二つの町内の一台の山車を共有していける状態ではもう無い、時代の移り変わりを感じとります。

今回の事は、強硬に断固抗議すべし、分離も辞さずという態度とは裏腹に旧関戸山車の今後の処遇等の見通しがついていない。共有のものである以上分離すれば、山車はどちらかの物になるか?どうなるのか?今回は断固曳かないが、山車は放棄しないがしかし元々半分は、西側の物。そういった東側の心情が、この回答に表れているのが読み取れます。

さて、この回答を受けた西関戸側も対応に頭を悩ませます。
日誌を元に話を要約します。
西関戸側は、さてどうしたらいいものかと協議をします。
そこで西側の有力者が、「私が東側の元老に話をしてきましょう、そうすれば話は収まるでしょう」と意見を出します。
そこで、まず東の区長に申入れをして、今回の紛争の謝罪をして、その後東側の元老に話をしに行こう」という事になります。

西側は、東の区長宅を訪れます。
しかし、東側の区長は不在。そこで当役に案内してもらい東の旦那衆の元老を尋ねます。
たずねますが、こちらも病気を理由にあってあえません。
そこで、東側の他の旦那衆を訪ね相談をします。
相談をすると、その旦那さんは「東においては、当役等は絶対に屋台を曳かないといっているとのことゆえ、それ(西側だけで曳く事)は結構じゃないのかと思う。」との事。
その話し合いの途中、警察署より警部補と巡査がきたり、前後三町である下宿、上中宿、下川岸区長が訪れ現時点までの経過を聞かれたので説明した。
その後、東の区長を呼んで再度話をして、「絶対に屋台を引かぬ、又屋台は貸す事も出来きぬ、又貸さぬとも申しません」では蛇の生殺しなので、確たる回答が欲しいと告げた。
その後、東側より回答があり「東においては絶対に参加はしない、また屋台は両区の所有なれば曳く曳かぬは随意に付き、もし曳廻す場合は黙認する」との回答を27日、午後六時に得ます。
その回答を得て直ちに西においては協議員会において議決し、西関戸だけでの曳き廻しを執行した。とあります。

この西関戸だけの曳き廻しが行なわれたという事が、分離の直接の引き金の様に資料等に書かれていることがありますが、実際のところは東関戸側は、西関戸だけでの曳き廻しについては了承をしていたという事が分かります。

それでは、東西の分離という新宿祭礼史におけるこの重大事件の歴史を動かした「その時は」はいつだったのでしょうか?

その時は、西関戸側が単独での曳き回しとは別の場所でおこっていました。
東関戸史談会の資料に、その時の様子を知る人間の話が残っています。

東関戸側は、前日の回状により27日早朝より薬師堂境内に若衆が集まります。
手洗前にてムシロをひいて、この後始まるであろう当役、役員の会議をまちます。
当役・役員が集まりだし、その後、旦那衆が集まりだします。
そして最後に、皆があつまった薬師堂境内に、町内の元老が現れます。
西関戸側が相談に行ったが、病気を理由にあえなかった元老です。
その元老は、境内に座りまっている若衆に「酒を一斗買って飲んでいろ」と金を渡し会議の場へ入っていきます。
会議の場では、各当役・役員が意見を交わしています。
やはりこれだけの歴史のある山車曳きをどうするかという会議ですから、ナカナカ意見もまとまらなかった事と思われます。

そんな会議が続く中、いよいよ今回のその時がやってきます。

その意見のやり取りを黙って聞ききながら、考え込んでいた元老が遂に口を開きます。

元老の出した答えは、山車の新造でした。

そして、その場にいた役員でもある町内の材木屋さんに「すぐに材木を見つけてこい」といいます。

この時、東関戸区だけの山車の新造、そして祭礼における東西の分離が決定されたのです。

この会議の出席者は、8人だけでありその内、この元老の一言にて重大事が決定されたと言われています。

この事が決定されたとき、薬師堂の前を西関戸区が曳く関戸郷が通ったことが印象深く忘れられないと、当時を知る方の話が東関戸史談会の資料に残っています。


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もともと東、西関戸は、関戸町(古くは関戸村)として一つの町内でしたが、天保14年(1843)に中郷、居作という二つの地区に分町されます。中郷とは現在の東関戸区にあたり、居作とは西関戸区をさします。

中郷、居作の二区は分町された後も、長い間一台の山車を二つの区で共有し祭礼に参加してきました。
関戸と新宿祭礼の係りは深く、、享保6年(1721)に下宿組の名主であった伊健権之丞智胤が中心となって、現在の新宿祭礼の始めとなった練物の祭りの取り決めを行った際にも、関戸は元々一つの村であったことを理由として、番組の一番とし、永代触頭に定められます。
永代触頭とは、毎年八月の朔日に各町に廻状を出して寄合を召集するほか、役所への願い出や御輿の飾り付けや後片付け、榊行列や獅子行列を担当するなど様々な役割を荷う重要な役でありました。今で言う年番であります。
そしてそれに係る経費の一切は、触頭であることを理由に関戸の負担とされていました。 
永代触頭であることから、明治10年(1877)に現在の年番制度が施行されるまで、実に156年もの間、関戸がこの役を務めていたのです。

額の文字より通称関戸郷とよばれた関戸の山車は、歴史も古いものでした。
そして何よりも大天井に飾られた猿田彦の大人形は、現在の佐原の大祭に伝わる大人形の始祖とも言われ歴史的に見ても大変重要な飾り物でもあったのです。
長い間、この関戸郷の山車は両区共有のものとして、祭礼に引き出されてきました。
それは、町名が中郷から東関戸、居作から西関戸に変わっても変わる事の無い事でした。
しかし、昭和9年の祭礼を最後に、この新宿祭礼の歴史といっても過言ではない伝統の山車がこの世から姿を消します。

今回は、当時の情勢を残した両区につたわる貴重な資料を元に原因等を紐解いていきたいと思います。


事件は、昭和9年新宿祭礼におこります。
西関戸区の青年会が親交会と書いた提灯を規定数以上山車にかけられた事から東関戸側と争いとなます。そして東関戸側は、この争いにより当役、若衆が皆引き上げてしまいます。
翌日は西関戸だけで山車の曳き廻しを行なったといわれています。

原因となったこの提灯は、祭礼の提灯ではなかったようです。
この親交会と書かれた提灯ですが、東関戸、西関戸の所属組織(若連のようなもの)と思われていましたが、そうではなく町内、祭礼にかかわりの無い団体の名称でありました。

当時、佐原では民政党、政友会などといった政治活動が盛んな時期であったりました。
西関戸の若衆間でも、こういった政治活動を盛んに行なう若衆のグループがあったそうです。
そういったグループが若連の提灯に赤い文字で「親交会」と筆入れして
山車に提げて党の勢力の誇示または宣伝?をしようとしたのです。
これには、両区を問わず反対をする人が多数いて「祭礼提灯以外は全部外せ」との声も大きいため協議し、提げる数は2個までとの規定を設けました。
しかし、この規定の数は守られず規定数以上の数を提げたため争いとなります。

この争いが元で、最終的には町内同士の争いとなってしまいます。
何故、そこまで争いが大きくなってしまったのでしょうか?

それには、当時の両関戸の情勢等が関係していたと推測されます。

当時、関戸郷を曳く人々の数はかなりの数にあったといわれています。


「元清宮デパート前で、まだ山車が駅方向にある時、東電門内(現大川みどり漬け)に二本の綱先がはいっても山車の曲がる姿が見えなかった」と言われています。

これを元に推測すれば、綱の長さは100mを超えていたと思われます。
山車曳きにかかわる人数はどうっだったのでしょうか?

昭和10年の東関戸区戸主名簿の数字を元に推測してみたいと思います。
当時の東関戸区の戸主数は247名。
単純にみると、大人が247名いた事になります。
戸主の下に子供が1名いたとしたら500人になります。
もちろんこの戸主数には祭礼に参加しない家庭、独身者、老人等も含まれていますが、当時一人っ子というのも少なかったでは無いかと思われます。
もちろんこの数はきわめて単純な推測にすぎません。

対する西関戸は、どうだったのでしょうか?
西関戸は、居作であった頃は耕作地であったため人数はすくなかったと思われます。そして明治、大正と鉄道の開設と共に西関戸側に油槽所が出来自動車業、石油業、旅館業、倉庫、そしてマユ市場等発展していきます。
「大正初期には、すでに人数では互角であり昭和になると圧倒的に西関戸のが多かった」と言われています。
それらのことから推測すると1000人近くの人間が祭礼に参加していた可能性もあると思われます。

1000人での山車曳き、大変スケールの大きな話ではありますが実際に行なってみると、かなり大変なものだと想像できます。
まして二つの町内が一つの山車を曳くわけですから、両町内の人間には人数が多すぎることによっておきる不具合の不満もかなり溜まっていたのではないでしょうか。


独立した二つの大きな町内が、一つの山車を曳いていて、人数は飽和状態であった事が容易に推測されます。
人数が推測ほど、いなかったとしてもやはり経済的にも人口的にも完全に独立して運営するだけの力をもった二つの町内が、一年で最大のイベントである祭礼において一台の山車を共有して曳くということが簡単な事ではなかったと思われます。

もうこの状態では、山車の曳き廻しを出来ないと感じていた人達の数はけして少なくなかったのではないでしょうか。
しかし、200年の伝統を誇る関戸郷の山車、猿田彦、永代触頭を156年も勤めた関戸という町内に対しての愛着、誇りなどがこの二つの町内を繋ぎとめていたのだと思われます。

そんな時に、おきた提灯による騒動。
最初は若衆同士で言い争っていたものが、仲の良い物、近所の者同士、そして町内単位と大きな単位での意見の対立になってしまったのではないでしょうか。そして元々、現状に不満のある状態だった両区の若衆同士の大きな争いになり、最終的には東関戸側が曳き上げてしまうという事態を招いてしまいます。

当時の事を記録してある文章があります。
西関戸側の責任者(区長?)であった方の当時の日記です。
日記には昭和9年9月25日、26日、27日の新宿祭礼の記述が残っています。

その記述を元に当時両区のやり取りが伺えます。

日記を要約しますと
26日の夜分、屋台の件に付き東の青年及び当役との間に、西の青年が作りし提灯のことの紛争を来たしたと、当役及び青年衆午後10時過ぎに来訪した。東においては、この件においては妥協の余地なし。との事。
それを聞いて責任者は西関戸区側としては、若衆に曳き廻しを止め絶対に屋台を運行しないように命じた。
またその他の西関戸の責任者の方々が来訪してきて、重大事件なので区長が東側へ話しにいったらどうか?といわれたが、若衆の紛争を区長が突飛に主張する事はしたくないので、それは当役にお願いする。何より、東側からの回答をまって、その上何かの処置を講じましょうということにした。
次に親交会連中が来て、親交会は、誓って静しくに曳き廻し消して自分達の主張をしない事(提灯を提げない、襦袢も着ない)を誓うまで譲歩したが、東においては応じてくれなかったといった。
26日の日記の最後には「然し事を穏やかに為し呉れる様に論示し置きたり」としるし、この動乱の一日の日記の最後を結んでいる。

27日のの様子も日記から伺えます。
27日早朝、当役より「いよいよ東は屋台は絶対に曳かず」との挨拶があったと告げられます。
それを受けて即刻協議員会を収集して善後策を議論をします。
どうしたら良い物かと協議をしていると、東関戸側より使者の当役が阿弥陀堂の協議の場に訪れます。

そしてその使者は再び東関戸側の意向を伝えていきます。

東関戸側の意向とは・・・・・・・


「東は絶対に屋台を引かぬ、又屋台は貸す事も出来きぬ、又貸さぬとも申しません」


関戸郷の山車は、二つの町内の共有の物でした。
東側の意向としては、絶対に曳かない、が共有の物である以上、曳かないと言っても西関戸だけで曳かせる事為に貸す事はできない。
しかし共有である以上貸さないとは言えない。
といった難解なものでした。



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・続く


ちょっと時期を外してしまいましたが、ちょっと終戦とお祭の話を一つ。

今年は終戦記念日に小泉首相が靖国神社に参拝したのが大きな話題となりました。
私的には、戦没者の慰霊という物は世界中どこの国でも行なわれており、その英霊に首相が手をあわせるというのは当然の事とだと思っています。
それについて他国がとやかく言うことは異常でしょう。
なのに日本では、国内の政治家達が小泉批判をしているという。
ある意味日本も異常な国です。
しかしテレビでは、その是非を問う討論番組などもあり「A級戦犯」という言葉を皆様もよく聞いた事と思います。
我が町内の山車額の文字を書いた荒木貞夫氏も、今話題のA級戦犯の一人であります。
その話はひとまずおいときまして。

さて、昭和20年の8月に太平洋戦争の終戦を迎えます。
終戦=敗戦です。
その敗戦間もない9月には既に、佐原の町では山車が曳かれていた。
祭を復活させていたというエピソードがあります。
そのエピソードを聞いた時は、さすが 佐原っ子!!戦争がおわり日本中が沈んでいる時に、山車を曳く。佐原っ子の心意気!!と関心したものです。
しかし旧「やでぇ板」に寄せられた、幣台オタクさんの投稿により、昭和20年9月に曳き出された山車は東関戸と仲川岸の2台だけであったらしいのですが。
東関戸の年表をみましても昭和20年の欄には当役氏名が記されており、祭礼経費1210円、収入1210円、支出474円 差引 736円の内 老婆連へ10円、後片付け150円を支払う。
残金596円にて大芸者会とあります。
又、支出474円の内下座諸掛かり 210円也。

この年に山車を曳いたのは確かなようです。
またこの年11月3日~5日 何か祭礼 と記されており、この時の支出収入も記されています。

戦後間もない山車曳きのエピソードとして山車を曳く際に額を飾るかどうか?迷った事があったそうです。

敗戦後、GHQ(総司令部)が最初に行ったことは検閲でした。
1945年(昭和20年)9月に発した、いわゆるプレス・コードによって、軍国主義的なもの、戦前・戦中の日本を肯定するもの、戦中の米軍の行為を批判するもの、原子爆弾や無差別空襲の被害について知らせるものは、ラジオ・新聞・雑誌他、一般市民発行の本に至るまで厳しく取り締まり、情報を統制した。
額の字を書いた人物が、陸軍大将の荒木貞夫氏(後の東京裁判ではA級戦犯とされる訳です)だった為、軍国主義的な物に当たると判断されればGHQに取り上げられるのでは?と恐れたようです。
途中、まで額を飾らずに山車を曳きましたが結局


「GHQは、これよめねーべ?w」

という事でまた飾ったとの噂です。


※ちなみに戦犯の国内での扱いに関して、それまで極東国際軍事裁判などで戦犯とされた者は国内法上の受刑者と同等に扱われており、遺族年金や恩給の対象とされていなかったが、1952年(昭和27年)5月1日、木村篤太郎法務総裁から戦犯の国内法上の解釈についての変更が通達され、戦犯拘禁中の死者はすべて「公務死」として、戦犯逮捕者は「抑留又は逮捕された者」として取り扱われる事となった。これにより1952年(昭和27年)4月施行された「戦傷病者戦没者遺族等援護法」も一部改正され、戦犯としての拘留逮捕者について「被拘禁者」として扱い、当該拘禁中に死亡した場合はその遺族に扶助料を支給する事になった。
1952年6月9日「戦犯在所者の釈放等に関する決議」、1952年12月9日「戦争犯罪による受刑者の釈放等に関する決議」、1953年8月3日「戦争犯罪による受刑者の赦免に関する決議」が可決された。そして「恩給改正法」では受刑者本人の恩給支給期間に拘禁期間を通算すると規定され、1955年には「戦争受刑者の即時釈放要請に関する決議」がされた。そして国際的にも、サンフランシスコ講和条約第11条の手続きにもとづき関係11ヶ国の同意を得て、A級戦犯は1956年に釈放された。


この写真は、東関戸の山車新造のお披露目時の記念写真です。
東関戸の公会堂に飾られているのですが、この写真は外にはでまわっていない様で見たことのない人がおおいと思います。
この写真のデータがほしくて、こっそりスキャンしてしまうおうかと思いましたが、写真のサイズがでかいためスキャナーに収まりきらずにスキャンできませんでした。
これは写真を、デジカメで撮影したものです。
写真の端っこが反射してるのは額のガラスの所為です。

この写真場所は、薬師堂境内でしょうか。
左手の木。これは現在もある木でしょう。
この写真を見ますと、彫刻は蕨手と額だけ確認できます。
持ち送りも付いているかもしれませんが写真では確認できません。
この写真をみても蕨手だけが早く製作されていたことがわかります。
また皆揃いの山車新造記念の半纏を着ています。
前方右に拍子木を首から掛けた方だけは、旧関戸の半纏を着ています。
拍子木くずしの柄、衿にせ組の白抜き文字が見えます。

さて 東関戸年表にこの時の様子が記されています。
昭和十年 七月九日
山車上棟に付御礼曳
彫刻、人形出来すも若衆曳廻したしの申込を致す。
区長、役員、今は金が無いので曳廻しせぬが良いという。
若衆一同、金が有れば曳いてよいかと問うと、良いという。
さてこそ思案中に、○○○○○○氏(当時 当役とあります)が「俺がその金貸してやる」と金五百円を出す。
早速、若衆餅をつき本宿八日市場太田棟梁宅まで餅を撒き撒き大興行す。

とありました。

ちなみに先日我が家で発見した昭和10年当時の金銭出納帳(家計簿)には、
7月5日 町内屋台棟上ゲニ付祝儀渡ス 10円
7月6日 町内花車棟上ゲに付大工祝儀 10円
と記されています。

他の記載をみても、やはり当時は山車とは言わず、屋台、花車と呼ばれることのほうが一般的だったんでしょうかね。

                           記者 関戸郷
このblog「サイバー大楠公新聞」ですが、実は元祖があります。
元祖は、その名も「大楠公新聞」です。
これは、江戸優りの常連さん「中郷さん」が代表となって昭和63年から数年間発刊されたお祭り専門の町内報です。
お祭り専門の町内報というのも画期的なのですが、当時私の度肝を抜いたのは大楠公新聞というネーミングです。
そのものズバリで初めてこの新聞が家に配られてきたときは、かなりビビりました。
ストレートすぎるそのネーミング かなりのインパクトを受けました。
実物が↓です。
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その年の祭りの情報、祭事区長の挨拶、大楠公のエピソード等内容盛り沢山の町内報でした。
その町内報もいつの間にか休刊となってしまったのです。

それで私が今回独断でお名前を借りて、新たにサイバー大楠公新聞として始めた訳です。
これは町内報ではなく、あくまで私個人のBLOG ですのでご注意下さい。

※サイバー大楠公新聞記者募集のお知らせ
さて、このサイバー大楠公新聞ですが今のところ私が記事を書いていますが、多数参加型のBROGにしたいと考えています。
町内在住の方、又は東関戸のお祭りに参加している方、又は過去に参加してた等縁のある方で記者を募集しております。
記事を書いても良いという方がいましたら管理人までメールでご一報下さい。
又ご本人のご承諾いただければ元祖大楠公新聞の中郷さんにも記事を書いてもらおうかなと勝手に考えております。(まだ本人にはお話していませんが・・)



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