忍者ブログ
カレンダー
04 2024/05 06
S M T W T F S
1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31
最新トラックバック
プロフィール
HN:
関戸郷
性別:
男性
バーコード
ブログ内検索
東関戸区の若連に所属する某若週のBLOG. 
ADMIN | ENTRY
 
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。


東関戸の正面欄間です。
真ん中の山伏の格好をした人は、村上義光(ムラカミヨシテル)という人です。
この人は、後醍醐天皇の親王 護良親王(大塔宮)の臣下です。
この場面は、鎌倉幕府を後醍醐天皇が討幕の戦いをしていた頃のお話です。

笠置山が陥落した後、熊野から十津川の竹原入道のもとへ逃れていた護良親王は、さらに高野へ向け逃れようとしました。
その道中敵方の土豪芋瀬庄司に遭遇し、親王一行はその通行を乞いましたが、芋瀬庄司は「幕府へ面子を立てる為、通すかわりに名のある臣を一人二人寄越せ」と返答してきました。
親王の臣下の赤松則祐(あかまつそくゆう)が「主君の危機に臨んでは自らの命を投げ出す、これこそが臣下の道。殿下の為に、この則祐、敵の手に渡ったかてかまいません。」と親王の為にと名乗り出ます。
しかし親王の他の臣下、平賀三郎は、「宮の御為にも今は有能な武将は一人たりと失ってはいけません。御旗(錦の御旗)を渡して激闘の末逃げ延びた事にすれば芋瀬庄司の立場も守れます。」と提案。
これを聞き入れて、大事な錦の御旗を芋瀬庄司に下して、何とか難所を乗り越えました。
今回の題材の主人公村上義光は、親王一行とは遅れて別行動でした。
そこで親王一行が去った後、遅れて村上義光が登場します。
村上義光は芋瀬庄司に出くわすが、そこには錦の御旗が翻っています。
義光は激昂し、「帝の御子に対して、貴様ごときがなんということを!」と、見事旗を奪い返して、親王の元に馳せ参じたというエピソードです。

その錦旗を、取り戻している場面が、この彫刻となります。
この彫刻には、モデルとなった錦絵があります。
それがこれ↓です。

水野年方「村上義光芋瀬ニ錦旗奪還ス図」。
これは、完全に金子光清が模写したと思われます。
この場面もメジャーな場面です。同じ場面の彫刻が本川岸の山車にもあります。
本来、彫刻の下絵は彫刻師がオリジナルで書くものなのですが、彫刻になるような題材は比較的お決まりの場面が多く、大体構図というものは似たりよったりです。しかしこれは、完全に模写といえるでしょう。
彫刻は、ある意味下絵(構図)が命ともいえるわけですが、この欄間はどんな図案にしようかと思い悩んだ際、この水野年方の絵の構図が良かったので、金子光清はちょいと拝借したのでしょう。

ちなみにこれは同じ場面ですが、構図が違います。



本川岸の山車彫刻を彫ったのは、金子光清の師匠 小松重太郎です。
師匠と同じ図案ではなく違うものをと思案して、これを使ったのか?
等と想像してみるのも面白いですね。




PR

東関戸の正面右方立 「稲村ヶ崎の新田義貞」です。
金子光清作になります。

稲村ヶ崎は稲村ジェーンの稲村ヶ崎です。
この図柄は新田義貞といえばコレッ!!! 
というベタな図柄ですが、カッコいいですね。

有名な場面なんで皆さんご存知でしょうから簡単に。

鎌倉攻めの際に、大仏貞直の守る極楽寺切通しの守りが固く、さらに海岸は北条方の船団が固めていたが、義貞が稲村ヶ崎で黄金造りの太刀を海に投じ竜神に祈願すると、潮が引いて干潟が現れて強行突破が可能になったという伝説の場面です。

やはり有名な場面らしく東関戸のほかに、下川岸にも同様の場面の彫刻があります。
また人形の題材としてもメジャーで、古くは下分の人形が同様の場面でした。
少し前まで潮来の二丁目(現在は日の出地区?)にもありました。
関東近辺では、三熊野神社大祭 せ組、大宮氷川神社例大祭の宮町、高崎山車まつりの北通町なども新田義貞の飾り物を載せています。

またこの彫刻を仕上げたを手伝った方が最近までご存命でした。
その方は大野勘三郎さんです。
この方は、彫刻師後藤桂林(下仲町、下宿の彫刻を彫った明治~昭和に掛けて活躍した後藤系名工)の弟子だそうです。
当時、金子光清と後藤桂林の間で交流があったそうで、その縁で東関戸の山車彫刻制作の手伝いをしたそうです。
本人いわく新田義貞の彫刻の仕上げをしたとの事。
中郷さん等は直接お会いした事もあるようです。
私も是非一度お話を伺いたいと思いましたが残念ながら亡くなってしまいました。ご冥福をお祈りいたします。






東関戸の額といえば鳳凰です。
鳳凰の彫刻のついた額といいますと、仲川岸もそうです。
山車の構造を、仲川岸を参考にした経緯もあり形も似ています。
額の図柄も鳳凰がついていてそっくりです。
首が曲がっているか?まっすぐか?の違いくらい?
もしかしてパクリ??
ってよく言われますが、パクリというわけではないと思います。

実はこの額を作る際、図案が二つあったそうです。
一つは、現在の額の図案。
もう一つは、龍の図案。

この二つの図案を町内で話し合ってどちらを使うか決めたそうです。
その結果採用されたのが現在の額。
不採用になった額の下図が現存しています。
町内の某家にあるそうです。
この図案は、東関戸の山車新造50周年記念式典の際 公開されました。
50周年の記念式典の際、公会堂に山車に関連する資料等を展示したのです。その中に、不採用になった額の下図があったそうです。
残念ながら小学生だった私は、山車と展示された天狗にばかり興味をしめし公会堂の中までは見ていませんでした。
今になってみると、どうしても見たい!!
何度かそのお方に見せて頂けないか?とお願いしましたが、「う~ん 何処にしまったかわかんない、探しとく」との答え。
しかし未だに見ることが出来ません。

これは町内で複製でもいいから持っていて良い物じゃないかと思います。
是非、もう一度。多分100周年までは待つと所在が完全にわからなくなるとおもいます。

ちなみにこの額は三分割になります。
額と鳳凰が別れ、さらに鳳凰の胴体と頭が分かれます。
保管する際は解体されて保管してあるわけです。

この額を飾るときは結構大変なんです。
今は、山車倉に電動の滑車があるので額は上げるのは簡単なんです。
問題は鳳凰。
この鳳凰だけは、誰かが担いであがらないといけないのです。
重さもさることながら、鳳凰を担いで片手で梯子をあがるのはナカナカ困難です。
私は出来ることならやりたくありません。
事実、この仕事の時は、声の掛からないよう、なるべく人目のつかないところにいます。
お願いですから私を探さないで下さい。
という気分です。
そして鳳凰には長い尾羽があります。
この尾羽が曲者です。
尾羽をぶつけないように細心の注意を払います。
やはり昔にもぶつけた人がいるらしく尾羽は折れていたりひびが入ってます。
ぶつけて折ってしまったら・・・・
鳳凰を持ったまま梯子から落ちたら・・・
考えただけで、鬱になってしまいそうです。
事実私が中学生のとき、祭りの朝(昔は祭礼の朝つけていました)何故かこの大役を仰せ使った事がありましたが、梯子の途中で固まってしまい上にも下にもいけなくなって、おびえた子羊のように立ち往生してしまった記憶があります。

しかし毎年誰かが頑張ってあげるわけです。
去年から大事なものだから若頭がもってあがったほうが良いという事にして頭が上がる事になりました。
このルールは、私がもし将来若頭になれた暁には是非廃止したいと思っております。




東関戸の蕨手彫刻です。
こちらも昭和10年、金子光清作。
右が新羅三郎(源)義光左が豊原時秋
足柄山での秘曲を授ける場面です。

この新羅三郎義光さんは、源氏の武将です。ちなみにお父さんは源頼義下宿の人形)、お兄さんは八幡太郎義家です。
この義光さんは、なかなか風流な武将で笙(雅楽などで使う楽器)を学んでおりました。
それで義光さんが笙を教わっていた師匠というのが豊原時元さんという名人です。
その名人の時元さんの子供が、左側にいる時秋さん。
この豊原時秋さんは、この義光さんの笙の師匠の子供という事になります。
元来豊原家は笙の名家であり、殊に時元は並び無き笙の名人でありました。
息子の時秋が、まだ幼少であった為、その秘曲を弟子だった義光に授けました。
そして時がたち、師匠の時元も他界しその秘曲を知っているのは義光一人となったのですが、義光も武家ですから戦に出るときが来てしまいました。
義光は、兄義家を助ける為奥羽に向けて出発したのですが、その道中足柄山に時元の子、時秋が追いかけてきます。
義光がもし討死でもすれば家伝の秘曲は、永遠に伝わらなくなるので義光の後を追って京都を発足し遂に相州(そうしゅう)足柄山で義光に追い着いたというわけです。
義光は後を追ってきた志を察し、時元より伝えられた秘曲・大食調(おおぐいちょう)とハ長曲の二曲をさず授け、師匠時元直筆の楽譜を与え、その望みを叶えさせた。

というのがこの場面になるのです。
この場面は、「奥州後三年記」という書物の代表的な一場面で、彫刻や絵の題材としては取り上げられることがあるようです。

同じ場面の作品が、絵馬などでも残っています。

あれ??
東関戸の彫刻って「太平記」を題材にしてるって言ってなかった??
そうなんですね。パンフレットや祭礼時の解説、勿論私のHPでもその様に言ってるんです。・・・・・が実は違う物語の場面もはいっています。
カミングアウトです。(といっても見る人が見るとすぐわかる話です)

いろいろとこじつければ太平記になります。
太平記といっても、いわゆる南北朝の動乱を描いた太平記ではありません。
太平記という物語が出来た後、あとからどんどん後の時代や前の時代を書いた前太平記、後太平記、続太平記(勿論作者もちがいます。)など書かれているのですが、それらから題材をとったとは考え難いと思われます。
前面の彫刻だけを見ても蕨手以外の方立、欄間は太平記(南北朝時代)の題材を取り上げられています。
この蕨手だけ違う時代の題材を取り上げているのは不自然です。
考えられるとすれば、人形が大楠公に決定する前に蕨手だけは製作しはじめてしまった???
その可能性が高いのです。
その辺の話は人形を作る際のお話と関連してきますので、また後ほど書きたいと思います。













東関戸の彫刻は、前面の彫刻が金子光清、それ以外が池田信之の作となっています。
額は、その金子光清作の前面彫刻のうち一番大きな作品です。
額は山車の前面を大きく飾る為、人形と並びその山車のシンボル的な物です。

東関戸の額は佐原の中では比較的大きな物になります。
全体に彫刻が施され上部には、唐破風につく懸魚の様に大きな鳳凰の彫刻が取り付けられています。
額の彫刻は「野草や菊、流水、鳳凰」等が彫られていて楠家の家紋「菊水」を表しているの様です。
鳳凰は勿論、菊や虫食いの葉っぱなど精巧な作りになっています。
私はこの彫刻が大好きです、見上げると本当に精巧に出来ていて何度見ても「う~ん 素晴らしい」と唸ってしまいます。
額の彫刻は不思議なもので、下ろして正面から見ると思っていたより彫りが浅かったり,立体的でなかったりします。
しかし、いざ山車に飾り付けてしたから見上げると、アラ不思議!!
超立体的に見えるのです。
菊の花びらなど、あんなに細かく彫ったらすぐ折れちゃうよ??ぐらいに見えます。
上に掲げて下から見ることを前提に彫ってあるわけです。
これぞ 巧の技。素晴らしい。

また額に書いてある「純正」の文字。
これは現在佐原で唯一、白字で書かれています。
これは前関戸の山車、関戸郷の文字が白で書かれていたのを継承したのでしょうか。
この純正の書は、当時の陸軍大将 荒木貞夫氏の書です。
これは、当時町内に荒木大将と親戚の方と大学時代学友だった人が、その縁を頼み書いてもらった書です。
荒木大将は、飾り物が大楠公であるという事に大変興味もたれ快く申入れを受けてくれたとの事。
国文学者平泉澄氏著「建武の中興の本義」の一節「純正日本精神」の言葉こそ大楠公に相応しいと感じ「純正」と大書きされました。

当時 書を書いてもらった際、荒木大将宅までお礼に行ったとの事ですが、そのお供に私の祖父がお供でついていき、お礼の品ということで1mもある生きた大鯉を新聞紙にくるみ持っていったとの事です。その鯉が道中腕の中で暴れて困ったとの後日談が残っています。
お礼に生きた大鯉をもって行くという辺りが時代を感じさせますね。








忍者ブログ[PR]
"関戸郷" WROTE ALL ARTICLES.
PRODUCED BY SHINOBI.JP @ SAMURAI FACTORY INC.