東関戸区の若連に所属する某若週のBLOG.
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東関戸の正面欄間です。
真ん中の山伏の格好をした人は、村上義光(ムラカミヨシテル)という人です。
この人は、後醍醐天皇の親王 護良親王(大塔宮)の臣下です。
この場面は、鎌倉幕府を後醍醐天皇が討幕の戦いをしていた頃のお話です。
笠置山が陥落した後、熊野から十津川の竹原入道のもとへ逃れていた護良親王は、さらに高野へ向け逃れようとしました。
その道中敵方の土豪芋瀬庄司に遭遇し、親王一行はその通行を乞いましたが、芋瀬庄司は「幕府へ面子を立てる為、通すかわりに名のある臣を一人二人寄越せ」と返答してきました。
親王の臣下の赤松則祐(あかまつそくゆう)が「主君の危機に臨んでは自らの命を投げ出す、これこそが臣下の道。殿下の為に、この則祐、敵の手に渡ったかてかまいません。」と親王の為にと名乗り出ます。
しかし親王の他の臣下、平賀三郎は、「宮の御為にも今は有能な武将は一人たりと失ってはいけません。御旗(錦の御旗)を渡して激闘の末逃げ延びた事にすれば芋瀬庄司の立場も守れます。」と提案。
これを聞き入れて、大事な錦の御旗を芋瀬庄司に下して、何とか難所を乗り越えました。
今回の題材の主人公村上義光は、親王一行とは遅れて別行動でした。
そこで親王一行が去った後、遅れて村上義光が登場します。
村上義光は芋瀬庄司に出くわすが、そこには錦の御旗が翻っています。
義光は激昂し、「帝の御子に対して、貴様ごときがなんということを!」と、見事旗を奪い返して、親王の元に馳せ参じたというエピソードです。
その錦旗を、取り戻している場面が、この彫刻となります。
この彫刻には、モデルとなった錦絵があります。
それがこれ↓です。
水野年方「村上義光芋瀬ニ錦旗奪還ス図」。
これは、完全に金子光清が模写したと思われます。
この場面もメジャーな場面です。同じ場面の彫刻が本川岸の山車にもあります。
本来、彫刻の下絵は彫刻師がオリジナルで書くものなのですが、彫刻になるような題材は比較的お決まりの場面が多く、大体構図というものは似たりよったりです。しかしこれは、完全に模写といえるでしょう。
彫刻は、ある意味下絵(構図)が命ともいえるわけですが、この欄間はどんな図案にしようかと思い悩んだ際、この水野年方の絵の構図が良かったので、金子光清はちょいと拝借したのでしょう。
ちなみにこれは同じ場面ですが、構図が違います。
本川岸の山車彫刻を彫ったのは、金子光清の師匠 小松重太郎です。
師匠と同じ図案ではなく違うものをと思案して、これを使ったのか?
等と想像してみるのも面白いですね。
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COMMENT
問題提起!
2006/08/03(Thu)23:15:57
またまた、お騒がせか………。
もし。 東の大人形が「義家」だったとしても。 もしかしたら。 今の「楠公」と同じ「頭首」だったかもしれない。 菊水を笹竜胆に換えるだけでOK。 これが「楠公」です。 っていわれても判らない。 義家と楠公の「最高活躍期」の年齢差はどうか。 今のあの「楠公」が「義家」だったとしても 全然違和感がない。 ………同時期作製の「小」が「義家」だったかも「あり得ない話」でもなさそう。 下宿には既存・父上の「頼義」あり。 中郷の面々「頼」の息子は「まぐねえべ」って思ったか。 で「大」になった。 製作途中の「家」は家紋を換えて「小」になった。 こんなドラマはいかがでしょう。 |