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東関戸区の若連に所属する某若週のBLOG. 
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久しぶりの彫刻ネタです。
彫刻ネタはサボっていたわけではなく彫刻の解説もどんどん書いてしまうと、あまり彫刻の多い山車ではないので書く題材が無くなってしまうという事に気がついたので一休みしておりました(笑

今回は、右の下高覧前側です。


作者は池田信之で昭和27年の作です。
この彫刻の左側に床机に座っている武将は、小楠公こと楠正行です。

楠正行(一三二六~一三四八)は正成の長子で、十一歳の時に桜井の駅で父とわかれて母のもとへ帰りました。この別れのシーンが有名な桜井の別れであり、東関戸の人形の題材でもあります。
父と別れ幼かった正行は故郷へ帰り、父 正成は湊川へ出陣していきます。湊川の戦いで足利尊氏に敗れ正成は戦死します。
その際、足利尊氏はかつての盟友でもあり良き好敵手でもあった正成の首を、正成の家族の下へ届けさせます。

その首が届けられたとき、悲しさのあまり幼い正行は自害しようしますが
母に教え訓され思いとどまります。

それ以後は父の遺訓と母の愛に励まされて武術と学問に精進し、楠の残った一族を率いて南朝の後村上天皇のもとへ馳せ参じます。



正行二十二歳の時、細川顕氏を大将とする足利の大軍を藤井寺の合戦で打ち破って初陣の功をたてます。

※山口将吉郎画 二日月(小楠公によせる幻想)少女の友 昭和10年10月号

その後、顕氏と山名時氏の連合軍が住吉と、天王寺に六千余騎で布陣しているのを二千余騎の手勢で散々に破って大勝利を博し、若い名将正行の名を挙げました。天王寺の戦いです。
その時の逸話に、戦に勝って正行が渡辺橋にさしかかると、川の中で敵兵達が傷ついて流れてゆくのを見て、救い上げ、焚火をして温め、薬や食物を与えて手厚く介抱して、傷のいえた者達には具足や馬を与えて敵方へ送り返してやったという話が残っています。その敵兵達は温い情に感激して、後の四条畷の戦いの時、正行に味方した者も少なくなかったといわれています。
この彫刻は、正行が流されていく敵兵を救う場面が現されています。
 
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左側下高覧(前側)の彫刻です。作者は池田信之です。

この彫刻には南北朝時代の武将、菊池武光が描かれています。
菊池武光は、九州地方の南朝方の中心的な武将でした。
この場面は、筑後川の戦いの一場面です。
1359年、菊池武光が約4万人の南軍を率いて、相手方の少弐頼尚(しょうによりひさ)は、約6万人の北軍を率いて、筑後平野を舞台に戦いました。
一日でおよそ5450名もの死者を出した九州で最大級の戦いでした。そして、菊池武光は、この戦いに勝利しました。
勝利した菊池武光は、多くの敵方の武士を切ったため、太刀が血でよごれていました。そこで、武光は血がついた太刀を合戦場近くに流れていた小川で洗いました。
その太刀を洗っている姿が、彫刻に表されています。

武光が太刀を洗った場所が現在の福岡県大刀洗町であり、そのことから「太刀洗町」の町名がつきました。そして、刀を洗った川を「太刀洗川」と言うようになりました。今では町名は「太刀洗」ではなくて「大刀洗」になっています。

こちらは東関戸の裏面欄間彫刻です。
作者は池田信之。
金子光清の次男であり二代目 金子光清を名乗っています。
製作年は、昭和26年の春です。
東関戸区の彫刻は、昭和10年に、額、正面欄間、正面左右方立、左右蕨手、蹴込、持送りの彫刻を金子光清が製作しています。
その後、資金や戦争の関係で彫刻の制作がされていませんでしたが、昭和26年に残りの彫刻を制作を再開しています。
昭和10年が第一時、昭和26年が第二期となります。

元弘三年(1333年)に、鎌倉幕府は後醍醐天皇と中心とする討幕派によって打ち滅ぼされます。
後醍醐天皇は、名和長年の軍を共に京都へと輦入ります。
この図は、その後醍醐天皇の鳳輦(ホウレン 天皇の乗った輿)を迎える
楠正成と伝えられていますが、笠置山落城のあと、京へ護送される天皇の鳳輦を遠く見送る正成の姿と解する説もあります。
場面としてはどちらともに捉えられるのですが・・・・。
彫刻師の下絵や箱書き、墨書きなどが残っていればわかるのですが。

中央の人物が正成でしょう。となりますとその後ろに控えるのは、弟の正李でしょうか。
後面の欄間ですので、提灯や注連縄でよく見ることの出来無い彫刻ですが、東関戸山車彫刻の中で唯一、楠正成が登場する場面でもありますので一度ご覧になってみてください。

追記
行列先頭の馬はこちらへ向かって来ていますので、迎えている場面です。この後、正成は行列の先導を仰せつかり、その馬上の姿が皇居前の銅像に表されています。像の監修は高村光雲、木型製作には石川信光も参加したようです。
追加記事  中郷











東関戸の蹴込み(けこみ)です。
蹴込みとは、御簾の下の部分、蕨手の裏側に位置します。祭礼時は、お酒等が置いてある事が殆どの為、あまり見えないです。
菊花や千鳥が描かれています。



こちらは持送り彫刻です。
四隅角は「波に亀」
写真上<正面右側 表> 写真下<正面右側 裏>


写真上<左側側面 表>写真下<左側側面 裏>
中の持送りは波に千鳥です。

あまり目立たない所ですが、持送りと蹴込みも金子光清作です。
昭和10年の作です。
製作場所は、うちの所有地の一角を作業場にして彫られたそうです。
彫刻師は、この持送りを彫る際、作業工程を一切隠したそうです。
布で幕を張り、他の大工、職人、町内役員は勿論、我が家の家人にも見せなかったとの事。

なぜそこまで隠したのでしょうか?
一枚の板を両面から違う構図で彫るという技法を隠したのかもしれません。
特別厚い板ではありませんから、この材に両面を彫るというのは技術の高さを裏付けている物と思われます。

図柄が波に亀です。
亀は、金子光清の師匠 小松重太郎の最も得意とした題材と聞いたことがあります。
小松重太郎の亀の彫刻は、八日市場の胴羽目彫刻があります。
大変素晴らしい出来映えです。何年か前に東京の彫刻師数名が佐原の夏祭に訪れた際、この胴羽目彫刻を見て絶賛したとの事。
1900年第五回パリ万国博覧会に、小松重太郎が出品し三等を受賞した作品も亀が題材だったそうです。
亀は小松系の得意とする題材だった為、秘伝だったり?
それで隠したのでしょうか?
いろいろと想像が膨らむエピソードです。
ちなみに金子光清の亀の彫刻は、下新町の山車額、下新町に建てられる幟の台座彫刻があります。





東関戸の正面左手の方立です。
手前に膝まづいている人物は、名和長年といわれています。

この場面は、倒幕計画が失敗して隠岐の島へ幽閉されていた後醍醐天皇は
1633年2月24日、隠岐を脱出します。
後醍醐天皇らは最初出雲の杵築浦を目指したが西風に流されて伯耆国の名和湊についてしまいます。
名和湊につくと臣下の千種忠顕が先に上陸し道行く人に「この辺りに武勇で知られた者はいないか」と訪ねると「有名な武士ではないですが名和長年という財産があり思慮に富んだ人物がおります」とききます。そこで忠顕は名和氏の館に行き、『今天皇が湊に来られて、その方の武勇を聞き及んで頼みとされている。速やかに迎えに来るのだ』と言った。
 この時名和一族は酒宴の最中だったが、あまりのことで答えることが出来なかった。そこに長年の弟である長重が進み出て「昔から今に至るまで人の望むところは富と名誉です。たとえ屍を戦場にさらすことになっても名を後の世に残すのは名誉なことです」と言ったので、名和一族は天皇を奉じて挙兵することを決意した。
合戦を決意した長年は近くの要害の地・船上山に立て籠もることを決めた。そこで長重が天皇を迎えに行ったが、急なことで輿を用意していなかったので鎧の上に荒薦を巻いて天皇を背負って船上山に向かった。
 長年は兵糧の用意のために近隣の農家に「倉にある米を一荷持って船上山に運んだものには500文を与える」と触れ回し5~6千人もの人数に5千石の兵糧を運ばせた。そして館に火をつけて名和軍も船上山に向かった。 (サイト名和長年戦記より)

この後醍醐天皇を名和湊にて迎える場面となります。
あれ???
名和湊で出迎えたのは弟の「長重」ですよね??
という事は、この手前の人物は名和長重かもしれませんね。
彫刻や錦絵などは、必ずしも史実とまるっきり一緒という事はないのです。
これがNHKの大河ドラマであれば時代考証がどうだ、とか視聴者からクレームがきたりするわけですが。
絵柄が良いとか題材が面白くなる、わかり易い などの方が史実より大事であったりするのではないでしょうか。

さて、この場面の続きが本川岸の彫刻にあります。
(多分題材として分類すれば、後醍醐天皇を船上山へ迎える場面として同一なのかもしれませんが)

輿を用意していなかったので鎧の上に荒薦を巻いて天皇を背負って船上山に向かった。
という場面がそれです。

名和氏のエピソードというと、この場面が有名です。
これもやはり金子光清は、師匠(本川岸の彫刻を彫った小松重太郎)の作品と同じ場面ではと思ったのでしょうか?色々想像しちゃいますね。

話はわき道にそれますが、もっと妄想しちゃいます。
下川岸の下高覧に「名和長生(なわながたか)」という人物が彫られています。
場面としては、名和長生が三種の神器を背負って京都へ届場面です。
下川岸の下高覧は、太平記の題材が数多くあります。
「楠公父子の別れ」「稲村ヶ崎の新田義貞」「児島高徳」。
「村上義光」もあったかな?
ですから太平記の時代を題材でそろえている感じがします。
上記の題材とくれば「名和長年or長重(船上山に後醍醐天皇を奉じる)」があっても不思議ではありません。
しかし名和とありますが、あるのは「名和長生」の場面です。
これは、彫刻師 佐藤光正がメジャーところだけではつまらないので、名和長年(長重)では無く「長生(ながたか)」というあえて渋い題材で彫ったのか?
それとも、名和長年と長生を勘違いして彫ったのか?
長年(長重)の場面は天皇を背負っています。
長生(ナガタカ)の場面は、神器を背負っています。
両方とも背負う繋がりですね。

またそれだけでなく、名和長年は後醍醐天皇を迎えた時は「名和長高(ナワナガタカ)」と名乗っていました。その後、後醍醐天皇に言われ長年に名前を変えています。

背負うという行為が同じだけでなく、名前の読みも同じなわけです。
このあたりで彫刻師が混乱して勘違いした??
なんて妄想も出来しちゃうのです。
これはあくまで私個人の妄想ですが、このように題材一つ 彫刻一つで色々と想像できちゃうというのも佐原の祭の奥深さであり面白い所なのではないでしょうか?
                        
                        記者 関戸郷  


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