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関戸郷
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東関戸区の若連に所属する某若週のBLOG. 
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意外と多忙です。
8月はじめは潮来の祇園祭でした。
下座で4日間参加してきました。
潮来は例年通りの酷暑で大変でしたが、とても良いお祭でした。

潮来が終わると、今度は友人の店が新装開店
今までも市内で営業してたのですが、この度住居兼店舗という形で新築しました。

「床屋 ろけっと」です。
皆様 ご贔屓にお願いいたします。

そうそう 開店のお祝いのお花がこんな方から届いていました。

 YAZAWAデスヨ?






    アレ      氷吉? 














           誰ですか?w






10日オープンでしたので、下座の仲間で「出張ゲリラ砂切」を行ないました。
ワゴン車に下座道具一式を積み込んで、店に乗り付け一方的に砂切だけを演奏して帰るという、郷ひろみも真っ青のゲリラライブでした。
勿論、本人に事前には一切教えていません。

そんなこんなで、忙しかったので更新できませんでした。
なるべく小まめに更新していきますので宜しくお願いいたします。

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東関戸の正面欄間です。
真ん中の山伏の格好をした人は、村上義光(ムラカミヨシテル)という人です。
この人は、後醍醐天皇の親王 護良親王(大塔宮)の臣下です。
この場面は、鎌倉幕府を後醍醐天皇が討幕の戦いをしていた頃のお話です。

笠置山が陥落した後、熊野から十津川の竹原入道のもとへ逃れていた護良親王は、さらに高野へ向け逃れようとしました。
その道中敵方の土豪芋瀬庄司に遭遇し、親王一行はその通行を乞いましたが、芋瀬庄司は「幕府へ面子を立てる為、通すかわりに名のある臣を一人二人寄越せ」と返答してきました。
親王の臣下の赤松則祐(あかまつそくゆう)が「主君の危機に臨んでは自らの命を投げ出す、これこそが臣下の道。殿下の為に、この則祐、敵の手に渡ったかてかまいません。」と親王の為にと名乗り出ます。
しかし親王の他の臣下、平賀三郎は、「宮の御為にも今は有能な武将は一人たりと失ってはいけません。御旗(錦の御旗)を渡して激闘の末逃げ延びた事にすれば芋瀬庄司の立場も守れます。」と提案。
これを聞き入れて、大事な錦の御旗を芋瀬庄司に下して、何とか難所を乗り越えました。
今回の題材の主人公村上義光は、親王一行とは遅れて別行動でした。
そこで親王一行が去った後、遅れて村上義光が登場します。
村上義光は芋瀬庄司に出くわすが、そこには錦の御旗が翻っています。
義光は激昂し、「帝の御子に対して、貴様ごときがなんということを!」と、見事旗を奪い返して、親王の元に馳せ参じたというエピソードです。

その錦旗を、取り戻している場面が、この彫刻となります。
この彫刻には、モデルとなった錦絵があります。
それがこれ↓です。

水野年方「村上義光芋瀬ニ錦旗奪還ス図」。
これは、完全に金子光清が模写したと思われます。
この場面もメジャーな場面です。同じ場面の彫刻が本川岸の山車にもあります。
本来、彫刻の下絵は彫刻師がオリジナルで書くものなのですが、彫刻になるような題材は比較的お決まりの場面が多く、大体構図というものは似たりよったりです。しかしこれは、完全に模写といえるでしょう。
彫刻は、ある意味下絵(構図)が命ともいえるわけですが、この欄間はどんな図案にしようかと思い悩んだ際、この水野年方の絵の構図が良かったので、金子光清はちょいと拝借したのでしょう。

ちなみにこれは同じ場面ですが、構図が違います。



本川岸の山車彫刻を彫ったのは、金子光清の師匠 小松重太郎です。
師匠と同じ図案ではなく違うものをと思案して、これを使ったのか?
等と想像してみるのも面白いですね。




このblog「サイバー大楠公新聞」ですが、実は元祖があります。
元祖は、その名も「大楠公新聞」です。
これは、江戸優りの常連さん「中郷さん」が代表となって昭和63年から数年間発刊されたお祭り専門の町内報です。
お祭り専門の町内報というのも画期的なのですが、当時私の度肝を抜いたのは大楠公新聞というネーミングです。
そのものズバリで初めてこの新聞が家に配られてきたときは、かなりビビりました。
ストレートすぎるそのネーミング かなりのインパクトを受けました。
実物が↓です。
ダウンロード(tif)
ダウンロード(tif)
その年の祭りの情報、祭事区長の挨拶、大楠公のエピソード等内容盛り沢山の町内報でした。
その町内報もいつの間にか休刊となってしまったのです。

それで私が今回独断でお名前を借りて、新たにサイバー大楠公新聞として始めた訳です。
これは町内報ではなく、あくまで私個人のBLOG ですのでご注意下さい。

※サイバー大楠公新聞記者募集のお知らせ
さて、このサイバー大楠公新聞ですが今のところ私が記事を書いていますが、多数参加型のBROGにしたいと考えています。
町内在住の方、又は東関戸のお祭りに参加している方、又は過去に参加してた等縁のある方で記者を募集しております。
記事を書いても良いという方がいましたら管理人までメールでご一報下さい。
又ご本人のご承諾いただければ元祖大楠公新聞の中郷さんにも記事を書いてもらおうかなと勝手に考えております。(まだ本人にはお話していませんが・・)



30日に薬師堂境内において、若連のバーベQ大会が行なわれました。
バーベQの他に若連有志による下座演奏(下座連ならぬゴジャ連ですが・・・w)も行なわれ大変盛り上がりました。

また30日夜に評議員会議が開かれ九月三日の香取市式典の山車曳き参加についての話し合いが行なわれ、今回の山車曳きの不参加が決定致しました。

東関戸の人形は、大楠公です。
大楠公とは南北朝時代の武将 楠正成です。

この人形は、昭和10年に大柴護豊(徳次郎)の作です。
大柴護豊は、佐原に3つの作品を残しています。
上仲町の太田道灌、下分の小楠公です。
その他の地域には作品は、残っていないようです。
(色々と各地の祭礼を見ても作品が残ってはいないようです)
祭礼研究のHP 「祭りだ屋台だ」に記載してある情報ですと、大柴護豊は山本福松の弟子にあたるそうです。
山本福松は、安本亀八と並ぶ名生人形師、松本喜三郎に薫陶を受けたそうです。
ということは大柴護豊は、松本喜三郎の流れも汲んでいるということになるのでしょうか。

製作当時の上仲町下分の人形をみても、腕の良さわかります。
作品が殆ど残っていないというのは、とても残念におもいます。

さてこの人形は、昭和9年に東西関戸が喧嘩してお互いに別々の山車を作ることになった為作られた訳ですが、どうして大楠公になったのか?

当時の様子を振りかえって見ます。
私の手元に「東関戸史談会」という資料があります。
これが書かれたのは今から20年くらい前だと思います。
この資料は当時、東関戸の歴史を残すために有志の方で開かれた会だと聞きました。
歴史を残し伝えるために、昔のことをしっている年配の方にお話を聞くという会だったらしいのですが、この話をテープに録音してその内容を書面にまとめてある物です。
ノートに手書きの資料です。
信憑性の程はどの程度かわかりませんが、このような談話などは歴史を紐解く上でとても貴重な資料といえます。

その史談会の資料によりますと、山車製作にあたり新しい飾り物は何にしようと町内でも話し合ったそうです。
武者人形がいいという意見、いや武者人形は鎧があるから費用がかさむから神様の人形が良いという意見。
何が良いかと話合われ、神様の飾り物にしよう、神様は大国主命がいいのではと意見も大体まとまりかけた頃、町内のある旦那さんから「人形は家で作る」と申し出があったとの事。その方の一存で大楠公になったとの事。
ではなぜ 大楠公??ここからは私の勝手な推測です。
昭和10年は、楠公600年祭の行なわれた年です。昭和10年は、楠正成没後600年にあたり湊川神社では楠公600年祭、世間では大楠公に関する書物や絵が書かれました。

この横山大観の「大楠公図」も、この年に書かれ湊川神社に奉納されています。
大楠公は、昭和10年の時代背景もありこの年一大ブームだったのではないでしょうか?
今で言えば、大河ドラマの主役に取り上げられて、その大河ドラマが視聴率40%の大当たりといったところでしょうか?
そういった時勢を考えると「大楠公」を人形の題材に選んだのも納得できます。

さて、このあたりの事情が先日書いた「蕨手」のお話と関係してくるわけです。
↑で書いたように、人形を何にするか話し合っていたわけですが、史談会の資料には、神様の人形の候補は大国主命だったわけですが、武者の方の候補名は消されています。
これも私の勝手な推測ですが、武者の候補は「八幡太郎義家」だったのではと思います。
この人形をどうするか話し合っている最中に彫刻師に「人形は源氏にするから、それに関連した彫刻にしてくれ」と頼んだのか?それとも史談会では最終的には大国主命が候補になったとありましたが、実は武者の方が最終候補で、それを伝えてしまってあの蕨手の題材になったのではないでしょうか?だとすればかなり煮詰まったところでの人形の題材変更が行なわれたと推測できます。

この辺りが蕨手題材の謎の真相ではないかと個人的には思っています。




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