忍者ブログ
カレンダー
03 2024/04 05
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30
最新トラックバック
プロフィール
HN:
関戸郷
性別:
男性
バーコード
ブログ内検索
東関戸区の若連に所属する某若週のBLOG. 
ADMIN | ENTRY
 
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

もともと東、西関戸は、関戸町(古くは関戸村)として一つの町内でしたが、天保14年(1843)に中郷、居作という二つの地区に分町されます。中郷とは現在の東関戸区にあたり、居作とは西関戸区をさします。

中郷、居作の二区は分町された後も、長い間一台の山車を二つの区で共有し祭礼に参加してきました。
関戸と新宿祭礼の係りは深く、、享保6年(1721)に下宿組の名主であった伊健権之丞智胤が中心となって、現在の新宿祭礼の始めとなった練物の祭りの取り決めを行った際にも、関戸は元々一つの村であったことを理由として、番組の一番とし、永代触頭に定められます。
永代触頭とは、毎年八月の朔日に各町に廻状を出して寄合を召集するほか、役所への願い出や御輿の飾り付けや後片付け、榊行列や獅子行列を担当するなど様々な役割を荷う重要な役でありました。今で言う年番であります。
そしてそれに係る経費の一切は、触頭であることを理由に関戸の負担とされていました。 
永代触頭であることから、明治10年(1877)に現在の年番制度が施行されるまで、実に156年もの間、関戸がこの役を務めていたのです。

額の文字より通称関戸郷とよばれた関戸の山車は、歴史も古いものでした。
そして何よりも大天井に飾られた猿田彦の大人形は、現在の佐原の大祭に伝わる大人形の始祖とも言われ歴史的に見ても大変重要な飾り物でもあったのです。
長い間、この関戸郷の山車は両区共有のものとして、祭礼に引き出されてきました。
それは、町名が中郷から東関戸、居作から西関戸に変わっても変わる事の無い事でした。
しかし、昭和9年の祭礼を最後に、この新宿祭礼の歴史といっても過言ではない伝統の山車がこの世から姿を消します。

今回は、当時の情勢を残した両区につたわる貴重な資料を元に原因等を紐解いていきたいと思います。


事件は、昭和9年新宿祭礼におこります。
西関戸区の青年会が親交会と書いた提灯を規定数以上山車にかけられた事から東関戸側と争いとなます。そして東関戸側は、この争いにより当役、若衆が皆引き上げてしまいます。
翌日は西関戸だけで山車の曳き廻しを行なったといわれています。

原因となったこの提灯は、祭礼の提灯ではなかったようです。
この親交会と書かれた提灯ですが、東関戸、西関戸の所属組織(若連のようなもの)と思われていましたが、そうではなく町内、祭礼にかかわりの無い団体の名称でありました。

当時、佐原では民政党、政友会などといった政治活動が盛んな時期であったりました。
西関戸の若衆間でも、こういった政治活動を盛んに行なう若衆のグループがあったそうです。
そういったグループが若連の提灯に赤い文字で「親交会」と筆入れして
山車に提げて党の勢力の誇示または宣伝?をしようとしたのです。
これには、両区を問わず反対をする人が多数いて「祭礼提灯以外は全部外せ」との声も大きいため協議し、提げる数は2個までとの規定を設けました。
しかし、この規定の数は守られず規定数以上の数を提げたため争いとなります。

この争いが元で、最終的には町内同士の争いとなってしまいます。
何故、そこまで争いが大きくなってしまったのでしょうか?

それには、当時の両関戸の情勢等が関係していたと推測されます。

当時、関戸郷を曳く人々の数はかなりの数にあったといわれています。


「元清宮デパート前で、まだ山車が駅方向にある時、東電門内(現大川みどり漬け)に二本の綱先がはいっても山車の曲がる姿が見えなかった」と言われています。

これを元に推測すれば、綱の長さは100mを超えていたと思われます。
山車曳きにかかわる人数はどうっだったのでしょうか?

昭和10年の東関戸区戸主名簿の数字を元に推測してみたいと思います。
当時の東関戸区の戸主数は247名。
単純にみると、大人が247名いた事になります。
戸主の下に子供が1名いたとしたら500人になります。
もちろんこの戸主数には祭礼に参加しない家庭、独身者、老人等も含まれていますが、当時一人っ子というのも少なかったでは無いかと思われます。
もちろんこの数はきわめて単純な推測にすぎません。

対する西関戸は、どうだったのでしょうか?
西関戸は、居作であった頃は耕作地であったため人数はすくなかったと思われます。そして明治、大正と鉄道の開設と共に西関戸側に油槽所が出来自動車業、石油業、旅館業、倉庫、そしてマユ市場等発展していきます。
「大正初期には、すでに人数では互角であり昭和になると圧倒的に西関戸のが多かった」と言われています。
それらのことから推測すると1000人近くの人間が祭礼に参加していた可能性もあると思われます。

1000人での山車曳き、大変スケールの大きな話ではありますが実際に行なってみると、かなり大変なものだと想像できます。
まして二つの町内が一つの山車を曳くわけですから、両町内の人間には人数が多すぎることによっておきる不具合の不満もかなり溜まっていたのではないでしょうか。


独立した二つの大きな町内が、一つの山車を曳いていて、人数は飽和状態であった事が容易に推測されます。
人数が推測ほど、いなかったとしてもやはり経済的にも人口的にも完全に独立して運営するだけの力をもった二つの町内が、一年で最大のイベントである祭礼において一台の山車を共有して曳くということが簡単な事ではなかったと思われます。

もうこの状態では、山車の曳き廻しを出来ないと感じていた人達の数はけして少なくなかったのではないでしょうか。
しかし、200年の伝統を誇る関戸郷の山車、猿田彦、永代触頭を156年も勤めた関戸という町内に対しての愛着、誇りなどがこの二つの町内を繋ぎとめていたのだと思われます。

そんな時に、おきた提灯による騒動。
最初は若衆同士で言い争っていたものが、仲の良い物、近所の者同士、そして町内単位と大きな単位での意見の対立になってしまったのではないでしょうか。そして元々、現状に不満のある状態だった両区の若衆同士の大きな争いになり、最終的には東関戸側が曳き上げてしまうという事態を招いてしまいます。

当時の事を記録してある文章があります。
西関戸側の責任者(区長?)であった方の当時の日記です。
日記には昭和9年9月25日、26日、27日の新宿祭礼の記述が残っています。

その記述を元に当時両区のやり取りが伺えます。

日記を要約しますと
26日の夜分、屋台の件に付き東の青年及び当役との間に、西の青年が作りし提灯のことの紛争を来たしたと、当役及び青年衆午後10時過ぎに来訪した。東においては、この件においては妥協の余地なし。との事。
それを聞いて責任者は西関戸区側としては、若衆に曳き廻しを止め絶対に屋台を運行しないように命じた。
またその他の西関戸の責任者の方々が来訪してきて、重大事件なので区長が東側へ話しにいったらどうか?といわれたが、若衆の紛争を区長が突飛に主張する事はしたくないので、それは当役にお願いする。何より、東側からの回答をまって、その上何かの処置を講じましょうということにした。
次に親交会連中が来て、親交会は、誓って静しくに曳き廻し消して自分達の主張をしない事(提灯を提げない、襦袢も着ない)を誓うまで譲歩したが、東においては応じてくれなかったといった。
26日の日記の最後には「然し事を穏やかに為し呉れる様に論示し置きたり」としるし、この動乱の一日の日記の最後を結んでいる。

27日のの様子も日記から伺えます。
27日早朝、当役より「いよいよ東は屋台は絶対に曳かず」との挨拶があったと告げられます。
それを受けて即刻協議員会を収集して善後策を議論をします。
どうしたら良い物かと協議をしていると、東関戸側より使者の当役が阿弥陀堂の協議の場に訪れます。

そしてその使者は再び東関戸側の意向を伝えていきます。

東関戸側の意向とは・・・・・・・


「東は絶対に屋台を引かぬ、又屋台は貸す事も出来きぬ、又貸さぬとも申しません」


関戸郷の山車は、二つの町内の共有の物でした。
東側の意向としては、絶対に曳かない、が共有の物である以上、曳かないと言っても西関戸だけで曳かせる事為に貸す事はできない。
しかし共有である以上貸さないとは言えない。
といった難解なものでした。



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・続く


PR
COMMENT
お名前 タイトル
URL コメント
メールアドレス
パスワード
そうだったんですか。
2007/01/26(Fri)19:28:42
それにしても凄い逸話ですね。
制御の利かない大所帯。
それはマズイと意思表示をする側、そして強硬派?
早かれ遅かれ何らかの形で「東西」独自の幣台、あるいは片方が新たなる幣台を曳かぬ事には納まらない事情にあったのだと察します。
思えばその他の町は「関戸」の様に【記録】や【背景】が表立って来ない様な気もしますが…
わが方ではこの様な「逸話」は、昭和の中頃までが精一杯の様です!?関戸郷様。の姿勢にまづり人は学び、また、好奇心をかり立てるブログは次世代の宝でであり、私達にとっても宝です。
時代をヒモ解く!凄いエネルギーだと感じます。
寺中 編集 RES
>寺中さん
2007/01/27(Sat)11:31:50
正直1000人というのは大袈裟かもしれませんが、現在の東西関戸が一緒にと考えても、ちょっと多すぎ・・・。大所帯ですよね。やはり東西関戸は、もとの関戸という町内の特異性、そして衝撃的な別離。とエピソードに事欠かないので、いろいろ残って(残してるのかも)しれません。
でも、実は資料が東側には殆どありません。意外と西側の方が資料がのこっていたり調査した人がいたりと。
私は、単に資料を見てかいているだけで紐解くという程大袈裟なものではありませんw
先日寺中さんからコメントをいただいたので、「その時歴史が動いた」風に今回書いてみましたw今月末は旅行ですので続きは来週となりそうです。
関戸郷 編集 RES
TRACKBACK
TRACKBACK URL : 
忍者ブログ[PR]
"関戸郷" WROTE ALL ARTICLES.
PRODUCED BY SHINOBI.JP @ SAMURAI FACTORY INC.