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東関戸区の若連に所属する某若週のBLOG. 
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合併記念式典山車曳き廻しプログラム
10:00  合併記念式典 開会
12:15  合併記念式典 文化会館内 閉会
12:30  山車曳き廻し 第1部
①代表砂切(田宿)
②総踊り(上宿)
13:00頃  山車曳き廻し 第2部
①北横宿
 下宿" 曳き違いを行い退場
②上宿 「そろばん曳き 3回」
③田宿
 荒久2台同時「のの字廻し」(田宿3回・荒久5回)
④本川岸
  浜宿
  寺宿 3台同時「のの字廻し 5回」
⑤八日市場 「のの字廻し 3回」
13:30頃  終了

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東関戸の正面左手の方立です。
手前に膝まづいている人物は、名和長年といわれています。

この場面は、倒幕計画が失敗して隠岐の島へ幽閉されていた後醍醐天皇は
1633年2月24日、隠岐を脱出します。
後醍醐天皇らは最初出雲の杵築浦を目指したが西風に流されて伯耆国の名和湊についてしまいます。
名和湊につくと臣下の千種忠顕が先に上陸し道行く人に「この辺りに武勇で知られた者はいないか」と訪ねると「有名な武士ではないですが名和長年という財産があり思慮に富んだ人物がおります」とききます。そこで忠顕は名和氏の館に行き、『今天皇が湊に来られて、その方の武勇を聞き及んで頼みとされている。速やかに迎えに来るのだ』と言った。
 この時名和一族は酒宴の最中だったが、あまりのことで答えることが出来なかった。そこに長年の弟である長重が進み出て「昔から今に至るまで人の望むところは富と名誉です。たとえ屍を戦場にさらすことになっても名を後の世に残すのは名誉なことです」と言ったので、名和一族は天皇を奉じて挙兵することを決意した。
合戦を決意した長年は近くの要害の地・船上山に立て籠もることを決めた。そこで長重が天皇を迎えに行ったが、急なことで輿を用意していなかったので鎧の上に荒薦を巻いて天皇を背負って船上山に向かった。
 長年は兵糧の用意のために近隣の農家に「倉にある米を一荷持って船上山に運んだものには500文を与える」と触れ回し5~6千人もの人数に5千石の兵糧を運ばせた。そして館に火をつけて名和軍も船上山に向かった。 (サイト名和長年戦記より)

この後醍醐天皇を名和湊にて迎える場面となります。
あれ???
名和湊で出迎えたのは弟の「長重」ですよね??
という事は、この手前の人物は名和長重かもしれませんね。
彫刻や錦絵などは、必ずしも史実とまるっきり一緒という事はないのです。
これがNHKの大河ドラマであれば時代考証がどうだ、とか視聴者からクレームがきたりするわけですが。
絵柄が良いとか題材が面白くなる、わかり易い などの方が史実より大事であったりするのではないでしょうか。

さて、この場面の続きが本川岸の彫刻にあります。
(多分題材として分類すれば、後醍醐天皇を船上山へ迎える場面として同一なのかもしれませんが)

輿を用意していなかったので鎧の上に荒薦を巻いて天皇を背負って船上山に向かった。
という場面がそれです。

名和氏のエピソードというと、この場面が有名です。
これもやはり金子光清は、師匠(本川岸の彫刻を彫った小松重太郎)の作品と同じ場面ではと思ったのでしょうか?色々想像しちゃいますね。

話はわき道にそれますが、もっと妄想しちゃいます。
下川岸の下高覧に「名和長生(なわながたか)」という人物が彫られています。
場面としては、名和長生が三種の神器を背負って京都へ届場面です。
下川岸の下高覧は、太平記の題材が数多くあります。
「楠公父子の別れ」「稲村ヶ崎の新田義貞」「児島高徳」。
「村上義光」もあったかな?
ですから太平記の時代を題材でそろえている感じがします。
上記の題材とくれば「名和長年or長重(船上山に後醍醐天皇を奉じる)」があっても不思議ではありません。
しかし名和とありますが、あるのは「名和長生」の場面です。
これは、彫刻師 佐藤光正がメジャーところだけではつまらないので、名和長年(長重)では無く「長生(ながたか)」というあえて渋い題材で彫ったのか?
それとも、名和長年と長生を勘違いして彫ったのか?
長年(長重)の場面は天皇を背負っています。
長生(ナガタカ)の場面は、神器を背負っています。
両方とも背負う繋がりですね。

またそれだけでなく、名和長年は後醍醐天皇を迎えた時は「名和長高(ナワナガタカ)」と名乗っていました。その後、後醍醐天皇に言われ長年に名前を変えています。

背負うという行為が同じだけでなく、名前の読みも同じなわけです。
このあたりで彫刻師が混乱して勘違いした??
なんて妄想も出来しちゃうのです。
これはあくまで私個人の妄想ですが、このように題材一つ 彫刻一つで色々と想像できちゃうというのも佐原の祭の奥深さであり面白い所なのではないでしょうか?
                        
                        記者 関戸郷  


ちょっと時期を外してしまいましたが、ちょっと終戦とお祭の話を一つ。

今年は終戦記念日に小泉首相が靖国神社に参拝したのが大きな話題となりました。
私的には、戦没者の慰霊という物は世界中どこの国でも行なわれており、その英霊に首相が手をあわせるというのは当然の事とだと思っています。
それについて他国がとやかく言うことは異常でしょう。
なのに日本では、国内の政治家達が小泉批判をしているという。
ある意味日本も異常な国です。
しかしテレビでは、その是非を問う討論番組などもあり「A級戦犯」という言葉を皆様もよく聞いた事と思います。
我が町内の山車額の文字を書いた荒木貞夫氏も、今話題のA級戦犯の一人であります。
その話はひとまずおいときまして。

さて、昭和20年の8月に太平洋戦争の終戦を迎えます。
終戦=敗戦です。
その敗戦間もない9月には既に、佐原の町では山車が曳かれていた。
祭を復活させていたというエピソードがあります。
そのエピソードを聞いた時は、さすが 佐原っ子!!戦争がおわり日本中が沈んでいる時に、山車を曳く。佐原っ子の心意気!!と関心したものです。
しかし旧「やでぇ板」に寄せられた、幣台オタクさんの投稿により、昭和20年9月に曳き出された山車は東関戸と仲川岸の2台だけであったらしいのですが。
東関戸の年表をみましても昭和20年の欄には当役氏名が記されており、祭礼経費1210円、収入1210円、支出474円 差引 736円の内 老婆連へ10円、後片付け150円を支払う。
残金596円にて大芸者会とあります。
又、支出474円の内下座諸掛かり 210円也。

この年に山車を曳いたのは確かなようです。
またこの年11月3日~5日 何か祭礼 と記されており、この時の支出収入も記されています。

戦後間もない山車曳きのエピソードとして山車を曳く際に額を飾るかどうか?迷った事があったそうです。

敗戦後、GHQ(総司令部)が最初に行ったことは検閲でした。
1945年(昭和20年)9月に発した、いわゆるプレス・コードによって、軍国主義的なもの、戦前・戦中の日本を肯定するもの、戦中の米軍の行為を批判するもの、原子爆弾や無差別空襲の被害について知らせるものは、ラジオ・新聞・雑誌他、一般市民発行の本に至るまで厳しく取り締まり、情報を統制した。
額の字を書いた人物が、陸軍大将の荒木貞夫氏(後の東京裁判ではA級戦犯とされる訳です)だった為、軍国主義的な物に当たると判断されればGHQに取り上げられるのでは?と恐れたようです。
途中、まで額を飾らずに山車を曳きましたが結局


「GHQは、これよめねーべ?w」

という事でまた飾ったとの噂です。


※ちなみに戦犯の国内での扱いに関して、それまで極東国際軍事裁判などで戦犯とされた者は国内法上の受刑者と同等に扱われており、遺族年金や恩給の対象とされていなかったが、1952年(昭和27年)5月1日、木村篤太郎法務総裁から戦犯の国内法上の解釈についての変更が通達され、戦犯拘禁中の死者はすべて「公務死」として、戦犯逮捕者は「抑留又は逮捕された者」として取り扱われる事となった。これにより1952年(昭和27年)4月施行された「戦傷病者戦没者遺族等援護法」も一部改正され、戦犯としての拘留逮捕者について「被拘禁者」として扱い、当該拘禁中に死亡した場合はその遺族に扶助料を支給する事になった。
1952年6月9日「戦犯在所者の釈放等に関する決議」、1952年12月9日「戦争犯罪による受刑者の釈放等に関する決議」、1953年8月3日「戦争犯罪による受刑者の赦免に関する決議」が可決された。そして「恩給改正法」では受刑者本人の恩給支給期間に拘禁期間を通算すると規定され、1955年には「戦争受刑者の即時釈放要請に関する決議」がされた。そして国際的にも、サンフランシスコ講和条約第11条の手続きにもとづき関係11ヶ国の同意を得て、A級戦犯は1956年に釈放された。

平成18年9月3日(日)午前10時から香取市の誕生を祝う合併記念式典を佐原文化会館にて開催されます。
残念ながら東関戸区は不参加ですが、皆さん 見に行きましょう!!
式典に併せ曳き出される山車は9台です。(田宿・荒久・本川岸・八日市場・浜宿・寺宿・上宿・下宿・北横宿)式典会場となる佐原コミュニティセンターや小野川沿いなどを曳き廻されます。
・式典会場について
佐原コミュニティセンター駐車場には、山車9台が集合し、総踊りやのの字廻し、そろばん曳きなどの曲曳きが披露される予定です。また当日コミュニティーセンター駐車場には、ブルーシートなどで簡易の観覧席が設置されるようです。  
11:00頃  山車集合 
12:30頃  第1部山車曳き廻し(代表砂切・総踊り)
13:00頃  第2部山車曳き廻し(そろばん曳き・のの字廻し)
13:30頃  コミュニティセンター内山車曳き廻し終了
・式典後の曳き廻しについて
曲曳き終了後、参加各町の山車は、「合併記念山車曳き廻し」として小野川沿いをはじめ町の中を午後10時頃まで曳き廻されます。本宿6町(田宿・荒久・本川岸・八日市場・浜宿・寺宿)は、コミュニティセンター駐車場から巡行し下記コースに進みます。
コミュニティセンター駐車場 ⇒ 東関戸踏切 ⇒ 東屋佃煮店左折⇒ 佐原信用金庫左折 ⇒ ほていや右折 ⇒ 小野川⇒ 中橋曳き別れ  
参加町内のコース予定図です。観覧の際、ご参考にどうぞ!!
(田宿)
山車倉~正上~開運橋~ほていや~入船橋~コミュニティセンター
(式典終了後コミュニティーセンターより出発)北新ビル~東佃煮店~ほていや~中橋~忠敬橋~山村会館~山車倉(夕食)~徳島屋~菊島寿司~柏屋~佐原信用金庫~共栄橋~三菱館~山車倉(21:30)

(荒久)
勝徳寺~須本源~蘇州飯店~ほていや~入船橋~コミュニティセンター
(式典終了後コミュニティーセンターより出発)東佃煮店~佐原信用金庫~中橋~勝徳寺(夕食)~荒久ニュータウン
宮本電気~保科商店~小林クリーニング店~チロル~勝徳寺(21:00)

(本川岸)
亀村木材~柳半水産~本川岸定位置~山田うなぎ店~仲川岸踏切~水戸証券~コミュニティセンター
(式典終了後コミュニティーセンターより出発)水戸証券~東関戸踏切~東佃煮店~ほていや~中橋~伊能忠敬記念館(夕食)~千葉商船~正上~亀村木材~本川岸踏切~香取竹材店~本川岸公会堂~船戸山車倉~本川岸公会堂(22:00)

(八日市場)
山車会館~本川岸定位置~山田うなぎ店~入船橋~宇井整形外科~コミュニティセンター
(式典終了後コミュニティーセンターより出発)タイムベル~東関戸踏切~東佃煮店~ほていや~中橋~萌陽高校~八坂神社(夕食)~玉澤綿ふとん店~須本源~上州屋~千葉商船~山村会館~石橋肥料店~山車会館駐車場(21:30)

(浜宿)
山車倉~萌陽高校~山野病院~開運橋~ほていや~水戸証券~コミュニティセンター
(式典終了後コミュニティーセンターより出発)旧清見屋~ほていや~中橋~忠敬橋~中橋~飯島商店~山車倉(18:00)

(寺宿)
寺宿会館~萌陽高校~開運橋~東京電力~入船橋薬局~水戸証券~コミュニティセンター
(式典終了後コミュニティーセンターより出発)東佃煮店~佐原信用金庫~ほていや~中橋~忠敬橋~寺宿会館(夕食)
~佐香江橋~鈴木組~高橋宅前~佐藤宅前~鈴木組~大竹種苗店~福岡豆腐店~寺宿会館(22:00)

(上宿)
立花商店(8:30)~根本石炭店~旧風月堂~大川みどり漬~石津建材
コミュニティセンター
(式典終了後コミュニティーセンターより出発)入船橋~ほていや~忠敬橋~めぐみ保育園~徳利洋品店~忠敬橋~上宿消防庫脇(夕食)~忠敬橋~山村会館~松崎自動車~加納屋~坂蔵屋~上宿消防庫脇(21:00)

(下宿)
下宿町内(8:00)~東通り~大川みどり漬~東関戸踏切~宇井整形外科
~コミュニティセンター
(式典終了後コミュニティーセンターより出発)入船橋~万代橋~浜宿踏切~山村会館~片倉商店~松本輪業~斉藤理容店
田宿~忠敬橋~下宿町内(夕食)~本宿川岸~開運橋~忠敬橋~下宿町内(22:00)

(北横宿)
久保木カバン隣(9:00)~大川みどり漬~東関戸踏切~コミュニティセンター
(式典終了後コミュニティーセンターより出発)仲川岸山車倉~ほていや~新宿川岸上る~忠敬橋~本宿川岸下る~開運橋~岡澤宝飾前(夕食)~旧高木GS~旧清見屋~旧松和電気~千葉商船~茶花~定位置(22:00)


この写真は、東関戸の山車新造のお披露目時の記念写真です。
東関戸の公会堂に飾られているのですが、この写真は外にはでまわっていない様で見たことのない人がおおいと思います。
この写真のデータがほしくて、こっそりスキャンしてしまうおうかと思いましたが、写真のサイズがでかいためスキャナーに収まりきらずにスキャンできませんでした。
これは写真を、デジカメで撮影したものです。
写真の端っこが反射してるのは額のガラスの所為です。

この写真場所は、薬師堂境内でしょうか。
左手の木。これは現在もある木でしょう。
この写真を見ますと、彫刻は蕨手と額だけ確認できます。
持ち送りも付いているかもしれませんが写真では確認できません。
この写真をみても蕨手だけが早く製作されていたことがわかります。
また皆揃いの山車新造記念の半纏を着ています。
前方右に拍子木を首から掛けた方だけは、旧関戸の半纏を着ています。
拍子木くずしの柄、衿にせ組の白抜き文字が見えます。

さて 東関戸年表にこの時の様子が記されています。
昭和十年 七月九日
山車上棟に付御礼曳
彫刻、人形出来すも若衆曳廻したしの申込を致す。
区長、役員、今は金が無いので曳廻しせぬが良いという。
若衆一同、金が有れば曳いてよいかと問うと、良いという。
さてこそ思案中に、○○○○○○氏(当時 当役とあります)が「俺がその金貸してやる」と金五百円を出す。
早速、若衆餅をつき本宿八日市場太田棟梁宅まで餅を撒き撒き大興行す。

とありました。

ちなみに先日我が家で発見した昭和10年当時の金銭出納帳(家計簿)には、
7月5日 町内屋台棟上ゲニ付祝儀渡ス 10円
7月6日 町内花車棟上ゲに付大工祝儀 10円
と記されています。

他の記載をみても、やはり当時は山車とは言わず、屋台、花車と呼ばれることのほうが一般的だったんでしょうかね。

                           記者 関戸郷
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