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東関戸区の若連に所属する某若週のBLOG. 
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もともと東、西関戸は、関戸町(古くは関戸村)として一つの町内でしたが、天保14年(1843)に中郷、居作という二つの地区に分町されます。中郷とは現在の東関戸区にあたり、居作とは西関戸区をさします。

中郷、居作の二区は分町された後も、長い間一台の山車を二つの区で共有し祭礼に参加してきました。
関戸と新宿祭礼の係りは深く、、享保6年(1721)に下宿組の名主であった伊健権之丞智胤が中心となって、現在の新宿祭礼の始めとなった練物の祭りの取り決めを行った際にも、関戸は元々一つの村であったことを理由として、番組の一番とし、永代触頭に定められます。
永代触頭とは、毎年八月の朔日に各町に廻状を出して寄合を召集するほか、役所への願い出や御輿の飾り付けや後片付け、榊行列や獅子行列を担当するなど様々な役割を荷う重要な役でありました。今で言う年番であります。
そしてそれに係る経費の一切は、触頭であることを理由に関戸の負担とされていました。 
永代触頭であることから、明治10年(1877)に現在の年番制度が施行されるまで、実に156年もの間、関戸がこの役を務めていたのです。

額の文字より通称関戸郷とよばれた関戸の山車は、歴史も古いものでした。
そして何よりも大天井に飾られた猿田彦の大人形は、現在の佐原の大祭に伝わる大人形の始祖とも言われ歴史的に見ても大変重要な飾り物でもあったのです。
長い間、この関戸郷の山車は両区共有のものとして、祭礼に引き出されてきました。
それは、町名が中郷から東関戸、居作から西関戸に変わっても変わる事の無い事でした。
しかし、昭和9年の祭礼を最後に、この新宿祭礼の歴史といっても過言ではない伝統の山車がこの世から姿を消します。

今回は、当時の情勢を残した両区につたわる貴重な資料を元に原因等を紐解いていきたいと思います。


事件は、昭和9年新宿祭礼におこります。
西関戸区の青年会が親交会と書いた提灯を規定数以上山車にかけられた事から東関戸側と争いとなます。そして東関戸側は、この争いにより当役、若衆が皆引き上げてしまいます。
翌日は西関戸だけで山車の曳き廻しを行なったといわれています。

原因となったこの提灯は、祭礼の提灯ではなかったようです。
この親交会と書かれた提灯ですが、東関戸、西関戸の所属組織(若連のようなもの)と思われていましたが、そうではなく町内、祭礼にかかわりの無い団体の名称でありました。

当時、佐原では民政党、政友会などといった政治活動が盛んな時期であったりました。
西関戸の若衆間でも、こういった政治活動を盛んに行なう若衆のグループがあったそうです。
そういったグループが若連の提灯に赤い文字で「親交会」と筆入れして
山車に提げて党の勢力の誇示または宣伝?をしようとしたのです。
これには、両区を問わず反対をする人が多数いて「祭礼提灯以外は全部外せ」との声も大きいため協議し、提げる数は2個までとの規定を設けました。
しかし、この規定の数は守られず規定数以上の数を提げたため争いとなります。

この争いが元で、最終的には町内同士の争いとなってしまいます。
何故、そこまで争いが大きくなってしまったのでしょうか?

それには、当時の両関戸の情勢等が関係していたと推測されます。

当時、関戸郷を曳く人々の数はかなりの数にあったといわれています。


「元清宮デパート前で、まだ山車が駅方向にある時、東電門内(現大川みどり漬け)に二本の綱先がはいっても山車の曲がる姿が見えなかった」と言われています。

これを元に推測すれば、綱の長さは100mを超えていたと思われます。
山車曳きにかかわる人数はどうっだったのでしょうか?

昭和10年の東関戸区戸主名簿の数字を元に推測してみたいと思います。
当時の東関戸区の戸主数は247名。
単純にみると、大人が247名いた事になります。
戸主の下に子供が1名いたとしたら500人になります。
もちろんこの戸主数には祭礼に参加しない家庭、独身者、老人等も含まれていますが、当時一人っ子というのも少なかったでは無いかと思われます。
もちろんこの数はきわめて単純な推測にすぎません。

対する西関戸は、どうだったのでしょうか?
西関戸は、居作であった頃は耕作地であったため人数はすくなかったと思われます。そして明治、大正と鉄道の開設と共に西関戸側に油槽所が出来自動車業、石油業、旅館業、倉庫、そしてマユ市場等発展していきます。
「大正初期には、すでに人数では互角であり昭和になると圧倒的に西関戸のが多かった」と言われています。
それらのことから推測すると1000人近くの人間が祭礼に参加していた可能性もあると思われます。

1000人での山車曳き、大変スケールの大きな話ではありますが実際に行なってみると、かなり大変なものだと想像できます。
まして二つの町内が一つの山車を曳くわけですから、両町内の人間には人数が多すぎることによっておきる不具合の不満もかなり溜まっていたのではないでしょうか。


独立した二つの大きな町内が、一つの山車を曳いていて、人数は飽和状態であった事が容易に推測されます。
人数が推測ほど、いなかったとしてもやはり経済的にも人口的にも完全に独立して運営するだけの力をもった二つの町内が、一年で最大のイベントである祭礼において一台の山車を共有して曳くということが簡単な事ではなかったと思われます。

もうこの状態では、山車の曳き廻しを出来ないと感じていた人達の数はけして少なくなかったのではないでしょうか。
しかし、200年の伝統を誇る関戸郷の山車、猿田彦、永代触頭を156年も勤めた関戸という町内に対しての愛着、誇りなどがこの二つの町内を繋ぎとめていたのだと思われます。

そんな時に、おきた提灯による騒動。
最初は若衆同士で言い争っていたものが、仲の良い物、近所の者同士、そして町内単位と大きな単位での意見の対立になってしまったのではないでしょうか。そして元々、現状に不満のある状態だった両区の若衆同士の大きな争いになり、最終的には東関戸側が曳き上げてしまうという事態を招いてしまいます。

当時の事を記録してある文章があります。
西関戸側の責任者(区長?)であった方の当時の日記です。
日記には昭和9年9月25日、26日、27日の新宿祭礼の記述が残っています。

その記述を元に当時両区のやり取りが伺えます。

日記を要約しますと
26日の夜分、屋台の件に付き東の青年及び当役との間に、西の青年が作りし提灯のことの紛争を来たしたと、当役及び青年衆午後10時過ぎに来訪した。東においては、この件においては妥協の余地なし。との事。
それを聞いて責任者は西関戸区側としては、若衆に曳き廻しを止め絶対に屋台を運行しないように命じた。
またその他の西関戸の責任者の方々が来訪してきて、重大事件なので区長が東側へ話しにいったらどうか?といわれたが、若衆の紛争を区長が突飛に主張する事はしたくないので、それは当役にお願いする。何より、東側からの回答をまって、その上何かの処置を講じましょうということにした。
次に親交会連中が来て、親交会は、誓って静しくに曳き廻し消して自分達の主張をしない事(提灯を提げない、襦袢も着ない)を誓うまで譲歩したが、東においては応じてくれなかったといった。
26日の日記の最後には「然し事を穏やかに為し呉れる様に論示し置きたり」としるし、この動乱の一日の日記の最後を結んでいる。

27日のの様子も日記から伺えます。
27日早朝、当役より「いよいよ東は屋台は絶対に曳かず」との挨拶があったと告げられます。
それを受けて即刻協議員会を収集して善後策を議論をします。
どうしたら良い物かと協議をしていると、東関戸側より使者の当役が阿弥陀堂の協議の場に訪れます。

そしてその使者は再び東関戸側の意向を伝えていきます。

東関戸側の意向とは・・・・・・・


「東は絶対に屋台を引かぬ、又屋台は貸す事も出来きぬ、又貸さぬとも申しません」


関戸郷の山車は、二つの町内の共有の物でした。
東側の意向としては、絶対に曳かない、が共有の物である以上、曳かないと言っても西関戸だけで曳かせる事為に貸す事はできない。
しかし共有である以上貸さないとは言えない。
といった難解なものでした。



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・続く


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リンクに「佐原囃子」追加いたしました。
どうぞ 皆さん いってみてください。
佐原囃子に関する詳しい記事がありますよ!!
本年も、サイバー大楠公新聞を宜しくお願い致します。
久しぶりの彫刻ネタです。
彫刻ネタはサボっていたわけではなく彫刻の解説もどんどん書いてしまうと、あまり彫刻の多い山車ではないので書く題材が無くなってしまうという事に気がついたので一休みしておりました(笑

今回は、右の下高覧前側です。


作者は池田信之で昭和27年の作です。
この彫刻の左側に床机に座っている武将は、小楠公こと楠正行です。

楠正行(一三二六~一三四八)は正成の長子で、十一歳の時に桜井の駅で父とわかれて母のもとへ帰りました。この別れのシーンが有名な桜井の別れであり、東関戸の人形の題材でもあります。
父と別れ幼かった正行は故郷へ帰り、父 正成は湊川へ出陣していきます。湊川の戦いで足利尊氏に敗れ正成は戦死します。
その際、足利尊氏はかつての盟友でもあり良き好敵手でもあった正成の首を、正成の家族の下へ届けさせます。

その首が届けられたとき、悲しさのあまり幼い正行は自害しようしますが
母に教え訓され思いとどまります。

それ以後は父の遺訓と母の愛に励まされて武術と学問に精進し、楠の残った一族を率いて南朝の後村上天皇のもとへ馳せ参じます。



正行二十二歳の時、細川顕氏を大将とする足利の大軍を藤井寺の合戦で打ち破って初陣の功をたてます。

※山口将吉郎画 二日月(小楠公によせる幻想)少女の友 昭和10年10月号

その後、顕氏と山名時氏の連合軍が住吉と、天王寺に六千余騎で布陣しているのを二千余騎の手勢で散々に破って大勝利を博し、若い名将正行の名を挙げました。天王寺の戦いです。
その時の逸話に、戦に勝って正行が渡辺橋にさしかかると、川の中で敵兵達が傷ついて流れてゆくのを見て、救い上げ、焚火をして温め、薬や食物を与えて手厚く介抱して、傷のいえた者達には具足や馬を与えて敵方へ送り返してやったという話が残っています。その敵兵達は温い情に感激して、後の四条畷の戦いの時、正行に味方した者も少なくなかったといわれています。
この彫刻は、正行が流されていく敵兵を救う場面が現されています。
 
さて、今年も残すところわずかとなりました。
本年、大楠公新聞をご愛読いただき有難うございました。
来年も一つ大楠公新聞を宜しくお願いいたします。
(もう更新するつもりの無いのがバレバレのご挨拶w)

さて、年末といえば「忠臣蔵」ですね。(強引です)
年末のスペシャルドラマなどで必ず放送される定番中の定番です。
この忠臣蔵、大石内蔵助率いる赤穂浪士47士が亡き主君の仇吉良上野介を討つ物語です。
この忠臣蔵のお話は、もともと文楽や歌舞伎で上演されて大人気になった演目です。いわゆる「仮名手本忠臣蔵」ですね。
人形浄瑠璃としての初演は(1748年)寛延元年8月14日から11月中旬まで大坂道頓堀竹本座であり、同年12月1日より大阪道頓堀中の芝居で歌舞伎化。江戸での初演は寛永2年2月6日より森田座で、京都では同年3月15日より早雲長太夫座であり、以降、途切れることなく現代に至るまで上演されつづけている大人気演目です。
さて、この「仮名手本忠臣蔵」ですが、現実のお話を元に作られています。
現実のお話は、現在ドラマなどでやっているおなじみの赤穂浪士の討ち入りの史実です
赤穂浪士の討ち入りは、当時の刺激的な出来事でしたのですぐに芝居に取り入れられます。
当時は、幕府の検閲がありますから、この「仮名手本忠臣蔵」はお上をはばかって過去の架空の出来事とされて書かれています。当時は、幕府によって実在の室町以降の大名家に関する話を絵や芝居にする事を禁じられていました。余談ですが、このあたりの事情が山車人形の題材に室町以降の武将などが少ないという事と関連があると個人的には思っています。


ですので、過去の架空の出来事としておりますので登場人物も時代背景も史実と変えています。
大石内蔵助→大星由良之助(おおぼし・ゆらのすけ)
浅野内匠頭→塩冶判官高貞(えんや・はんがん・たかさだ)
吉良上野介→高武蔵守師直(こう-の・むさしのかみ・もろなお/のう)
といった具合です。

高師直といえば楠正成の宿敵、足利尊氏の参謀的な部下ですね。
という事は、時代設定は南北朝の頃です。

この仮名手本忠臣蔵以前の、赤穂浪士の討ち入りを扱った歌舞伎・人形浄瑠璃の狂言としては『東山栄華舞台』((1702年)元禄15年3月、江戸山村座)、『曙曽我夜討』(1703年、江戸中村座)、『太平記さざれ石』(1710年)、『鬼鹿毛無佐志鐙』(1710年、吾妻三八作)、『碁盤太平記』(1710年、大坂竹本座、近松門左衛門作)等の諸作があり、世界も小栗判官、曽我物語、太平記などあったのですが、『碁盤太平記』あたりから世界を太平記とし、各役の振分けが固定しいき、これを受けて忠臣蔵ものの集大成として作られたのが仮名手本忠臣蔵なのです。

なぜ、南北朝時代に設定したのか?
それには太平記読みという江戸時代の庶民の楽しみが関係してきます。
江戸時代には「太平記読み」ということが広く行なわれ、講談・芝居を通じて楠木正成の挿話は江戸庶民なら誰でも知っている話でありました。
江戸庶民の倫理観の根本となっていたからです。楠正成・正行の親子は太平記でもっとも好意的に描かれている人物であり、天皇に対する「忠義」・さらに正行の母に対する「孝心」は庶民の手本とされました。
正成・正行親子は、江戸の庶民のヒーローであり、「忠孝」の理想像であったのです。
この時代の講釈場では、楠正成が最高の人気の演目であったので、客の入りが悪くなると、門口に「今日より正成出づ」の張り紙が出る、つまり本日の演目は楠正成だぞ、というのが効果てきめんの客寄せの宣伝文句であったと言います。こうしたことは明治時代の講釈場でも続いたそうです。

「楠のいま大石となりにけりなほ(名を)も朽ちせぬ忠孝をなす」
 という落首が赤穂事件の直後に出たといわれています。

「太平記読み」という精神土壌があった当時の庶民にとって、「忠臣」と言えばそれは誰よりもまず楠正成のことを指したのですが、江戸の庶民は吉良邸へ討ち入り亡君の無念を晴らした大石内蔵助の行為を見て、内蔵助は正成の生まれ変わりだと直感したのです。しかも吉良家というのは江戸時代においては足利家の名跡を伝える唯一の家柄でした。吉良家・すなわち足利家の血筋を断絶に追い込んだ内蔵助は、江戸庶民にとってはまさしく「正成の生まれ変わり」であったのです。

元禄時代に書かれ大人気をはくした「仮名手本忠臣蔵」。
史実としては全く関連の無い太平記と忠臣蔵の世界ですが、稀代の忠臣として楠正成と大石内蔵助を重ね合わせて見ることにより、当時の観客の共感を得た名作品となったようです。

※参考site
ウィキペディアー仮名手本忠臣蔵ー
太平記読みと忠臣蔵
由良之助は正成の生まれ変わり

長々と書きましたが、殆ど上記URLのコピペです
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